佐野と神郷に広がる斗西(とのにし)遺跡は、古代、神前(かんざき)郡(現在の神崎郡)の中心地でした。約1300年前の奈良時代には、大きな建物が立ち並んでいて、この地域を治めた豪族(ごうぞく)が屋敷を構えていたことが、発掘調査でわかっています。また近くの川跡からは、これに関係する墨書土器がたくさん見つかっていますが、中に「甲賀」と記された土器があります。しかし、なぜ能登川町に「甲賀」の墨書土器があるのでしょう。これを解くヒントが古文書にありました。
「甲賀」は旧の甲賀郡、現在の甲賀市に当たり、奈良時代には聖武(しょうむ)天皇が信楽の宮を造営したところです。ところが信楽の宮は、造営2年後の744年に大火事で焼けてしまいました。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、造営工事の協力と大火事の消火に「神前郡」の豪族「佐々貴(ささき)山君(やまぎみ)」が活躍し、天皇から多くの褒美をもらったことが記されています。「山君」は、木材や鉱山など山の資源を取り仕切る豪族に与えられた氏姓で、当地の佐々貴氏が鈴鹿山脈の資源を管轄していたことが想像できます。
「甲賀」の墨書土器は、古代、甲賀郡と人の往来や情報の行き来があったことを直接証明する貴重な資料です。遺跡の土器と古文書を結ぶことで、まちの歴史をまた一つよみがえらせることができました。