西堀榮三郎とは
西堀榮三郎
-
西堀榮三郎の生涯は波乱万丈です。
地球の果てへの地理的探検は、南極から世界の屋根、ヒマラヤの高峰にまで足跡を残しており、探検界のリーダーでした。そればかりか、科学者・技術者として自ら製造にも携わり、品質管理、原子力、海洋と、いずれの分野においても探検的精神を貫ぬき、教育者・哲学者でもあったと評価されています。 -
「皆、違うからいい。異質だからいい」「実践こそが一番大事」「後輩や部下にチャンスを与えることが一番のプレゼント」など、多様な分野でリーダーとして活躍した西堀の言葉は、価値観が多様化する現代社会を生きる私たちに前向きに生き抜くヒントを与えてくれます。
探検の殿堂では、西堀精神に基づき、「地域に開かれた博物館」をめざして、次世代への財産を蓄積し、更には人材育成をしていくために、自主的な個人あるいは団体と協働で様々な事業の企画・運営に取り組んでいます。
西堀榮三郎年表
1903 | 1月28日 京都市に生まれる(五人兄弟姉妹の末子) |
---|---|
1914 | 京都・南座で白瀬中尉の南極報告を聞く |
1918 | 今西錦司らと共に「青葉会」を結成、山城30山の登頂をめざす |
1922 | アインシュタイン博士夫妻を京都・奈良に案内する |
1927 | 京大・東大合同スキー合宿「雪山賛歌」が生まれる (作詞:西堀榮三郎で登録) |
1928 | 京都帝国大学理学部講師 |
1934 | 12月~翌年1月 京都帝国大学白頭山遠征 |
1936 | 助教授になるも、大学を飛び出し東京電気株式会社(現東芝)に入社、上京 |
1939 | アメリカへ留学 アメリカの南極探検者たちを訪ね歩き、資料を収集 |
1944 | 真空管「ソラ」を発明 |
1950 | 日科技連の招きでデミング博士が来日、助手として各地の工場を指導して歩く |
1952 | 単身ネパールに入国(戦後日本人として初めて)、マナスル登山の許可を得る |
1954 | デミング賞本賞受賞(品質管理普及の功績) |
1956 | 南極観測隊副隊長に任命 京都大学理学部教授(~1958年5月まで) |
1957-58 | 第一次南極地域観測隊 越冬隊長 |
1958 | 日本原子力研究所理事(~1964年6月まで) |
1965 | 日本原子力船開発事業団理事(~1969年1月まで) |
1973 | ヤルン・カン初登頂(遠征隊隊長) 勳三等旭日中綬賞叙賞 |
1978 | ゴルカ・ダク・シン・バフー勳二等叙勲(ネパール王室より) |
1980 | チョモランマ北東稜・北壁からの登頂に成功(総隊長) |
1983 | 京都府文化賞受賞 |
1989 | 4月13日 死去(享年86歳) |
西堀榮三郎と探検家たち
日本とその周辺
嶋谷市左衛門 | 生年不詳~1690 | 江戸中期小笠原諸島の探検 |
---|---|---|
最上徳内 | 1755~1836 | すぐれた千島列島探検家 |
近藤重蔵 | 1771~1829 | エトロフ島の探検 |
高田屋嘉兵衛 | 1769~1827 | クナシリからエトロフへの航路を開く |
松田伝十郎 | 1769~1843 | 樺太(サハリン)の北端へ |
間宮林蔵 | 1775~1844 | 間宮海峡の確認 |
伊能忠敬 | 1745~1818 | 最初の実測日本地図 |
松浦武四郎 | 1818~1888 | 北海道探検とアイヌ民族抑圧の報告 |
ジョン万次郎 | 1827~1898 | 冒険家を自覚した日本人 |
郡司成忠 | 1860~1924 | 北千島探検と開発 |
中央アジア
河口慧海 | 1866~1945 | ヒマラヤを越えてチベットへ潜入 |
---|---|---|
能海寛 | 1868~1901 | チベットへ仏教経典を求めて |
大谷光瑞 | 1876~1948 | 1876~1948 |
日野強 | 1865~1920 | 中央アジア横断 |
橘瑞超 | 1890~1968 | 中央アジアの探検と発掘 |
吉川小一郎 | 1885~1978 | 西域仏教遺跡の発掘 |
青木文教 | 1886~1956 | ダライ・ラマに招かれた学問僧 |
今西錦司 | 1902~1992 | 日本探検界の大指導者 |
木村肥佐生 | 1922~1989 | チベット潜行十年 |
西川一三 | 1918~2008 | モンゴル・チベット探索 |
梅棹忠夫 | 1920~2010 | 学術探検の巨人 |
南アメリカ
天野芳太郎 | 1898~1982 | アンデスの考古学と天野博物館 |
---|---|---|
田中薫 | 1898~1982 | 日本人初のパタゴニア探検 |
泉靖一 | 1915~1970 | アンデス古代文明の探究 |
ヒマラヤ
槙有恒 | 1894~1989 | 日本近代アルピニズムの父 |
---|---|---|
長谷川伝次郎 | 1894~1976 | カイラス山をはじめて撮った男 |
堀田弥一 | 1909~2011 | 日本最初のヒマラヤ登山 |
今西寿雄 | 1914~1995 | 日本初の8000メートル峰マナスル登頂 |
中尾佐助 | 1916~1993 | 日本人初のブータン踏査と独創的な農耕文化論 |
川喜田二郎 | 1920~2009 | ネパールの民族学的探検 |
東南アジア・オセアニア
田代安定 | 1857~1928 | 琉球の博物学的研究 |
---|---|---|
笹森儀助 | 1845~1915 | 八重山諸島の紹介者 |
岩本千綱 | 1858~1920 | インドシナ半島横断 |
早田文蔵 | 1874~1934 | 台湾の植物分類学のパイオニア |
金平亮三 | 1882~1948 | オセアニアの植物学的探検 |
土方久功 | 1900~1977 | ミクロネシアの民族学的探検 |
鹿野忠雄 | 1906~1945 | 台湾の自然史・民族学研究の先駆者 |
北アジア・東アジア
榎本武揚 | 1836~1908 | 日本人初のシベリア横断 |
---|---|---|
福島安正 | 1852~1919 | シベリア単騎横断 |
鳥居龍蔵 | 1870~1953 | 東アジア各地の人類学的探検 |
金田一京助 | 1882~1971 | 言語学的探検の草分け |
藤田和夫 | 1919~2008 | 山脈形成論の実践論的研究 |
西アジア
江上波夫 | 1906~2002 | アジア各地の考古学的探検 |
---|---|---|
木原均 | 1893~1986 | コムギの起源を求めて |
探検の研究家
加納一郎 | 1898~1977 | 極地探検の先導と研究 |
---|---|---|
深田久弥 | 1903~1971 | ヒマラヤ・中央アジアの研究者 |
極地
白瀬のぶ | 1861~1946 | 日本人初の南極探検 |
---|---|---|
西堀榮三郎 | 1903~1989 | 南極・ヒマラヤ探検のパイオニア |
植村直己 | 1941~1984 | グリーンランド犬ぞり横断 |
人生これ探検である
西堀の英語の名詞には、「Dr. Etesan E Nishibori」と書かれている。エテサン、のエテは猿のことをいう。外国の技術者や探検家に「エテサン」と呼ばせるためだが、小手先の器用さではなく、創意工夫する器用さを自慢にしていた。そして、寸評めいた批評の中でも本人が納得していたのは「そこにブランコがあれば、必ず乗ってみるやつだ」(新しいことをやる)である。
西堀の人生は、ブランコがあれば乗ってみる探求心と創意工夫の精神から成り立っていた。機械いじりの楽しさが技術畑で身を立てる基礎をつくり、山や海外に向かったことが南極にもつながった。“探(さぐり)検(しらべ)”し、創意工夫しながら“未知を拓いてゆく”人生を楽しんだ。
『生きた知識』というものは、自分で体験することによってしか得る方法はない。実際に手にとって体験した知識は、奥深く広がりをもった知識となり、創造性を育成し、活動の源泉となるものである。
(昭和60年8月17日 第12回野外活動協議会 講演録より)
西堀榮三郎における登山と探検
親族なり家庭なりの庇護の範疇にある子どもが、外の世界へ出て行くとき、それは独り立ちであると同時に、人生の方向を決める重大な契機となることが多い。中学時代の西堀にとってそれは「山」の世界だった。だが、舞台は「山」であっても、そこで西堀が感知したものは「新しい世界」なのだ。
ある人にとっては最初の舞台が「文学」かもしれないし、ある人には「海洋」かもしれない。ここで人生のわかれ道が始まる。最初の舞台のめくるめく感動につき動かされるままに、生涯にわたって追求していくタイプとなるか、最初の舞台で感動した原点たる『未知の領域』を求めてゆくか。西堀は後者であった。西堀にとっては、山も品質管理も原子力も、追求する最奥のものとしては同じことになるのだ。
(「西堀榮三郎における登山と探検」本多勝一・大内尚樹 より抜粋)