雪野山古墳の発掘調査
平成元年夏、八日市市(当時)のふるさと街道特別対策事業「雪野山史跡の森整備工事」によって、雪野山の山頂に、展望台が設置されることになりました。『八日市市史』(昭和58年)では、山頂に古墳があるとされていましたが、詳しいことはわかっていませんでした。
試掘調査の結果、大変重要な古墳であることがわかり、本格的な発掘調査が必要となりました。大阪大学文学部 都出比呂志教授(当時)を団長として結成された雪野山古墳発掘調査団によって、4ヵ年の現地発掘調査、その後3ヵ年に及ぶ報告書作製のための整理調査が行われました。このことにより、雪野山古墳の全貌が解明されることになったのです。
1次調査
初めて雪野山古墳に調査のメスが入ったのは平成元年8月3日、本当に古墳なのかどうかを調べるための試掘調査が、八日市市教育委員会(当時)によって行われました。
調査では、最初に一帯の樹木伐採や清掃を行い、調査地点を設定します。人力で地表面を平滑に削って、人為的に掘削された痕跡などを確認します。
表土を取り除いてまもなく、同じような大きさの平坦な石が次々と並んでいるのが、見つかりました。まさに大当たり!地表面からわずか10センチメートル足らずの地点で、古墳の埋葬施設である竪穴式石室の上面が見つかったのです。
竪穴式石室には、本来、天井石と呼ばれる蓋となる石がありますが、雪野山古墳ではその多くが失われ、1つしか残っていませんでした。このことから、この時点では、すでに後世に盗掘を受けていると推測され、そのまま竪穴式石室内部の調査を進めることになりました。
調査のための伐採・清掃の様子
- 石が現れた!
- 竪穴式石室の上面を露出させた様子
竪穴式石室の内部は、本来は空洞ですが、天井石が外され、砂にうずもれた状態となっていました。これは後世に蓋が開けられたものの、わざと土が入れられ、密封されたものと考えられています。竪穴式石室の内部を深さ約1.4メートルまで砂を除去した地点で、粘土床と呼ばれる木棺を据え付ける土台の輪郭が見つかりました。いよいよ竪穴式石室の底面に近づいた、というところです。
9月1日、粘土床の内側に堆積する砂の一部を除去しました。するとまったく予想していなかったことに、3面もの銅鏡が姿を現しました。盗掘を受けてとうになくなっていると考えられていた副葬品が、当時の姿のまま見つかったのです。
古墳時代前期の未盗掘古墳であることがわかった雪野山古墳は、保存のための本格的な発掘調査が必要と判断されました。雪野山は、当時松茸が採集されるため、関係者以外は入ってはいけない止山でしたが、地元の協力や関係機関の尽力により、調査を進めることができるようになりました。
八日市教育委員会と大阪大学考古学研究室を中心とした雪野山古墳発掘調査団が結成され、9月13日から本発掘調査が開始されました。
砂を取り除くと…
姿を現した銅鏡たち
山頂での発掘調査は、登山から始まります。たくさんの調査器材や食事の調達その他、大変苦労されましたが、貴重な古墳の発掘調査で意欲は十分です。竪穴式石室内部の大きさは、北端幅1.5メートル、南端幅1.35メートル、長さ6.1メートル、一度に多くの人は入れません。副葬品が納められた状態のまま、動かさないよう傷つけないように慎重に土だけを除去する掘削作業、記録として実物を観察しながら縮小図面の作成や写真撮影など、窮屈な体勢を強いられながらも懸命に調査が進められました。調査の最終段階には夜間泊まり込みによる監視もされました。
調査風景
- 実測風景
- 写真撮影風景
- 夜間警備の様子
- 写真撮影風景
竪穴式石室の内部には、半環状の突起をもつ舟形木棺が納められ、内部の2か所に仕切り板が設けられていました。木棺の内外に副葬品が配置され、銅鏡5面、武器武具を中心とする鉄製品に、多数の銅鏃、鍬形石と琴柱形石製品などの石製品類、ガラス小玉、土器、さらには漆製品が出土しました。重要な成果が得られたため、現地説明会を開催する運びとなり、9月26日に報道記者発表が行われました。未盗掘古墳の発掘調査であり、さらに卑弥呼の鏡と言われる三角縁神獣鏡が見つかったことから、テレビや新聞などで大きく取り上げられ、大変話題となりました。
そして、10月1日、現地説明会が開催されました。八日市西小学校(柏木町)の体育館で都出比呂志先生の講義が行われ、そこから山の麓まで約2.5キロメートルの道のりを歩き、山頂まで標高差200メートルほどの登山が必要な現地見学です。当日は2,000人以上の見学者があり、小学校の広いグラウンドが近畿東海地区のみならず、全国からの車で埋まりました。参加の皆さんが、竪穴式石室内部の朱色の鮮やかさに大変感動されたことは、今でも語り草となっています。
- 八日市西小学校での講義
- 現地見学の様子
現地説明会後は、竪穴式石室内部の情報を完全に記録した後、副葬品の取り上げが行われました。棺外の漆膜など一部を残して、いったん埋戻しが行われ、11月18日に1次調査が終了しました。
2次調査
平成2年の2次調査では、古墳の形を明らかにするため、地形測量調査が行われました(4月23日から5月6日)。古墳は、長い年月の間に風雨や地震で崩れたり、人為的に削られたり埋まったりしていますが、現時点での地形の測量図は重要な基礎資料です。この図を元に、墳丘の形状を判明するための発掘調査が、3・4次調査へと引き続き行われました。
現地表面で注目されるのは、南側に石垣、前方部の両側が竪堀状に削られているなど、中世に山城へと改変がされていると推察される点です。雪野山の麓には、佐々木六角氏の家臣であった後藤氏の館跡があります。雪野山古墳は後世に改変され、後藤氏の付け城となったと考えられています。
- 県史跡後藤館跡と雪野山
- 後藤館跡平面図
3次調査
平成3年の3次調査では、墳丘の発掘調査と、1次調査で調査しきれなかった石室内部の漆塗り製品等の調査が行われました(3月17日から5月15日)。
墳丘の発掘調査は形状を把握するために15地点で調査区が設けられました。一帯は保安林に指定されているため、木を伐らない形で、どこまでが古墳であるのか、古墳の輪郭や構造が理解される特徴的な地点が選ばれました。急斜面での作業であり、土運びなど体力のいる調査です。
この調査の結果、古墳の形の復元が試みられ、全長約70mの前方後円墳と結論つけられました。また、山中で産出される湖東流紋岩やその岩盤を用いて葺石とし、埴輪はなかったことがわかりました。
漆塗り製品の調査では、再度狭い石室の中に入ります。漆塗り製品は、木地に漆が塗られた製品と考えられるもので、木質は土中で分解されて失われ、漆膜だけが残った状態です。靫と呼ばれる矢を入れる背負い具や、竪櫛、合子、短甲状の漆膜などが見つかりました。非常に脆弱なものであるため、竹串やピンセットで土を徐々に取り除き、ようやく姿を現しました。最後は表面を樹脂で固めるなど保護して、下面の土と一緒に取り上げられました。
漆膜の調査の様子
棺外の靫の取り上げ作業
竪穴式石室内部の調査を終了し、保護の為、埋戻しが行われました。竪穴式石室の状況を立体的に残し、博物館などで展示ができるよう、型取りが行われ、樹脂製レプリカが作成されました。
墳丘部分の調査(現地説明会4月27日)
- 石室レプリカの型取り打合せ
- 粘土床部分を型取りしたもの
4次調査
平成4年の4次調査は、竪穴式石室の構造、墳丘形態の解明のための調査が行われました。(3月16日から4月13日)
墳丘調査では、前方部・クビレ部と呼ばれる部分が調査されました。後世に改変を受けていることから、本来の高さはわかりませんが、前方部がバチ形に開く古墳の輪郭が復元されました。
竪穴式石室の構築過程を明らかにするために、石積みの裏面などで、部分的に断ち割り調査が行われました。竪穴式石室を築くために掘られた穴(墓壙)は前方後円墳の後円部、平坦面いっぱいに広がる大きなものです。雪野山古墳自体の大きさは特別大きいものとはいえませんが、竪穴式石室がしっかりとつくられています。さらに、もうひとつの墓壙の輪郭が見つかり、調査された竪穴式石室とは別の埋葬施設があることが分かりました。
- 後円部の調査風景
- 現地説明会(4月12日)
整理調査
現地での発掘調査と並行して、作図した図面・写真の整理、副葬品の実測・撮影・文化財保存修理などが行われ、4冊の発掘調査概要報告書が刊行されました。現地での発掘調査を完全に終えた後は、正報告書の刊行に向けての調査や執筆が行われました。
副葬品は、金属・木製品・漆膜など多種多様で、貴重なだけでなく、取扱い自体も大変難しいものばかりです。1次調査で取り上げられた棺内靫は、1年かけて室内での調査が進められ、その構造が解明されました。壺形土器は、表面が一部風化していることや、朱が付着していることから水洗いせず、慎重に土を取り除き、接合復元されました。出土品に応じた調査の方法や技術は、調査例の積み重ねによって培われるもので、今後、他の遺跡での調査にも活かされていきます。
平成7年の阪神淡路大震災により、調査を行っていた大阪大学も被害を受けましたが、翌年の平成8年、発掘調査報告書『雪野山古墳の研究』が刊行されました。
雪野山古墳は目下県内最古の前方後円墳であり、近江地域に先駆的に畿内の中央政権と関係した有力者の存在を知ることとなりました。銅鏡をはじめとした副葬品のセット関係や配列、水銀朱の散布行為など、葬送儀礼を復元できる貴重な事例です。また豊富な副葬品が出土したことから、当時の生産技術の復元や具体的な用途、副葬品の編年などの研究を進展させました。これらの調査成果は、調査団の先生方や学生さん達のたゆまぬ努力の賜物でした。本書は同年の雄山閣考古学賞を受賞しています。
靫の室内での発掘調査風景
実測中の壺形土器
発掘調査報告書『雪野山古墳の研究』
雪野山古墳の現在
副葬品が重要文化財に指定
雪野山古墳の副葬品は、古墳時代前期前半の古墳の副葬品を網羅しており、未盗掘古墳において精緻な発掘調査が行われ、学術的に裏付けされた極めて価値の高いものです。
雪野山古墳の副葬品の特徴として、多彩な漆製品で構成されていることが挙げられます。中でも棺内から出土した靫は、革製の矢筒本体に太さの異なる糸を菱形に編み上げ、黒漆を施した後に朱彩をしたもので、大変貴重です。また他の漆製品には多数の竪櫛、それを納めていた合子状のもの、短甲状のもの、槍の柄と考えられる黒漆塗の棒状品及び武具の一部と推定されるものなどがあります。
また、小札革綴冑は、初現期にあたる甲冑で類例が非常に少ないものです。雪野山古墳においてはほぼ完全な形を保って出土した稀有な例で、さらにその復元がされたことによって、未解明であった小札革綴冑の形態や技術に関する多くの成果がもたらされました。
これらのことから、副葬品のうち218点附棺材が、重要文化財美術工芸品考古資料「滋賀県雪野山古墳出土品」として指定されました。(平成13年6月22日付け文部科学省告示第109号)
雪野山古墳の副葬品は現在、発掘調査から20年以上が経過し、一部のものについて、今後の保存継承のために修理が必要となりました。そのため、平成23~28年度にかけて国庫補助事業文化財保存修理事業を実施しました。東近江市埋蔵文化財センターでは、平成26年度から順次公開展示を行っています。古代の最高の技術でつくられた素晴らしい副葬品の数々をご覧いただけます。
- 修理途中の銅鏡
- 修理が完了した銅鏡
- 石室レプリカ展示の様子
- 展示風景(東近江市能登川博物館)
古墳が史跡に指定
雪野山古墳は現在、調査前の姿にほぼ近い形で残こされています。鈴鹿山脈から琵琶湖までを見渡すことのできる雪野山には、古墳時代前期、湖東平野を基盤として活躍した有力者が今も眠っているのです。
発掘調査成果により、雪野山古墳は古墳時代前期における近江地域の政治・社会状況を知る上で重要な事例であるとして、史跡に指定されました。(平成26年3月18日付け文部科学省告示第30号)
雪野山は現在までに、山麓の公園整備、遊歩道や樹木伐採などの整備が地域の方々や公共事業により行われ、遺跡探訪だけでなくハイキングにもうってつけの里山です。東近江市埋蔵文化財センターでは、雪野山古墳とその周辺の遺跡探訪や講演会を行い、普及啓発に努めています。
雪野山古墳の現在の状況(東から)(合成写真)
←雪野山古墳の現況図(平成21・22年測量)
後円部頂の四角い部分は、竪穴式石室を保護するための覆い土です。発掘調査後、土の流出を防ぐため、八日市市役所(当時)の新任職員が歩荷で土を運んだそうです。
- 雪野山中腹の展望広場
(平田地区まちづくり協議会が整備) - 史跡指定・発掘25周年記念講演会の様子
- 雪野山麓の雪野山歴史公園
(八幡社古墳群(古墳時代後期)) - 八幡社南古墳群(雪野山歴史公園)(古墳時代後期)
- 整備された木村古墳群(川合町)
(古墳時代中期) - 天狗前古墳群(横山町)(古墳時代後期)