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ふるさと百科 能登川てんこもり 【発信】

発信 Spreading Information

発信 Spreading Information(PDF 18.5KB)

21世紀も間近な、いま1997年。「情報化の時代」と言われてかなり久しくなります。テレビでは毎日、地球上の各地で起こっている数々のニュースが、ひっきりなしに伝えられています。また、発達めざましいコンピュータでは、インターネットを通じて全世界の情報を無限に提供しています。でも、あふれる情報の中から自分に必要で、正しい情報を取り出すことはそうたやすいことではありません。
このような情報過多の世の中で、私たちの地域の情報はいったいどうなっているのでしょうか。「以前なら隣近所のおつきあいから、ごく自然に得られていた身近な情報が、全く入らなくなっている」こんな声を編集委員会で耳にしました。いま不足しているのは、このような地域に密着した情報ではないでしょうか。「地域の、地域による、地域のための情報交換から、地域づくりの活力が芽吹く」そんな気がします。
「発信と受信は表裏一体のものです。受信も大切にしなければなりません」
ますます巨大化する情報社会で、私たちは何を発信し、何を受信すべきなのでしょうか?

Spreading Information
Now,in 1997,we are nearing the 21st century.The era known as the information age has been with us for quite some time.Everyday a lot of news from all parts of the world isconstantly transmitted to us.Also,with the amazing progress of computers and the Internet,the supply of information is limitless.
But from this flow of information it is difficult to choose material relevant to one's self.
Of the community,and by the community,however,this exchange of information will provide the vitality for growth and development.
“Since spreading and receiving information are one,receiving is just as important.”
In this gradually growing information society,what should we send and what should we receive ?

【凍結するヨシ(大中)】

◆放つ Spreading Information

◆放つ Spreading Information(PDF 114KB)

21世紀目前のいま、時空をこえて熱いメッセージを送ります。
そして、情報受信にも力を入れ、混合させ、合成し、何年後に振り返っても、つねに何かを発し続ける、そんな「いま」にしたいと思います。

能登川町総合文化情報センター
情報さがしはここで解決

『ふるさと百科能登川てんこもり』が発刊されるいまそのとき、町民待望の「能登川町総合文化情報センター」が完成オープンします。この施設は、図書館と博物館それに埋蔵文化財センターを総称したものです。
情報化時代といわれる現代、情報そのものは言うに及ばず、「インターネット」に代表されるような情報伝達手段のサービスも視野に入れた活動を展開していきます。ある情報を知っているのと知らないのでは、ほんとうに大きな差となってしまいます。「食わず嫌い」にならず、ぜひこの施設をあなたの情報タンクとしてご利用ください。

【能登川町総合文化情報センター】
【平成7年(1995)1 2月は、こんな雪原だったところに】
【こんな光景があちこちで】

◆姉妹町からのメッセージ Messages from sister cities

◆姉妹町からのメッセージ Messages from sister cities(PDF 237KB)

縁あって姉妹町となった篠栗・江差・テーバーの三町、北との、南との、海外との発信・受信を通じて、ますます友好を深めます。
そして、お互いに刺激し合いながら、来るべき21世紀へ向かって、力強く前進します。

●篠栗町
[福岡県糟屋郡]
篠栗町は福岡市から東へ12キロメートルという位置にありながら、町土の7割を標高600メートル級の山が連なる緑多きまちです。また、150年の伝統を誇る篠栗四国霊場を持つ、信仰のふるさとでもあります。→本文へ続く

篠栗四国霊場は、小豆島新四国(香川県)、知多新四国(愛知県)とともに「日本三大新四国」として、全国に知られています。巡拝者は年間約150万人。第一番札所の南蔵院にある「釈迦涅槃像」は、ブロンズ製の涅槃像としては世界一の大きさ。その全長は41メートル、高さは11メートル。ニューヨークの自由の女神を横にした大きさに匹敵するものです。
弘法大師伝説が残る霊峰「若杉山」(681メートル)山頂の太祖神社の境内には、県天然記念物の二本の杉の巨木がそびえています。1号杉は高さ29メートル、2号杉は30メートルもあります。山頂付近の「奥の院」には、「太っていても善人は通れ、細身でも悪人は通れない」という言い伝えの「はさみ岩」があります。
若杉山と峰つづきの「米の山」(593メートル)の展望台は福岡都市圏が一望できる絶景。ハングライダー、パラグライダーが飛び立つレジャースポットとしても人気を呼んでいます。
昭和54年(1979)の能登川町との姉妹締結から18年。いま、篠栗町は「きらめく緑・新鮮ふるさと グリーンオアシス・ささぐり」のキャッチフレーズのもと、総合運動公園建設、自然と調和した鳴淵ダム周辺整備、JR九州篠栗線の電化事業など、すべての人に住みよい町づくりに力を入れています。地の利から発展を続け、平成9年(1997)1月現在、篠栗の人口は2万7000人をこえ、年々増加しています。
時代とともに、両町の様相は少しずつ変化していますが、これからも末永く交流が続くことを祈念します。

【世界一のブロンズ製涅槃像】
【篠栗百万ドルの夜景!】
【米の山展望台から「ソレッ!」】

●“北海道の里 追分流れるロマンの町江差”
江差町
[北海道檜山郡]
江差町は北海道の南西、日本海に面した海の町です。
その昔、北海道では唯一の城下町であった松前に対し、ここ江差は交易をとおして商都として栄えました。→本文へ続く

その時代、多くの近江商人が活躍していたことから、昭和59年(1984)から皆さんの町、能登川町と親しく交流を深めてまいりました。『ふるさと百科 能登川てんこもり』発刊に際し、ここで写真を交えながら皆さんに江差を紹介させていただきます。
近江商人が往来した交通機関は「北前船」です。関西から瀬戸内海、関門海峡を通り日本海を北上したこの船は、江差の各寄港地の特産品を運び、文化や芸能を伝えております。中でも日本を代表する民謡「江差追分」は、国内外に多くの愛好者を有し「追分を聴きに」「追分を唄いに」江差を訪れる方々が跡を絶ちません。
町の古い通りには北前船で沸いた時代を彷彿させる建物が多く、国の重要文化財に指定されている「旧中村家」は滋賀県と当町の縁をいまに伝える遺構の一つです。
このような商都としての歴史とは別に、明治初頭の大きな事件がありました。蝦夷共和国建国をめざした榎本武揚軍が乗船してきた軍艦開陽丸の江差沖座礁沈没です。
町では、引き揚げた遺物の展示や当時の時代背景を後世に伝えるため、120年の歳月を経た平成2年(1990)に『青少年研修施設開陽丸』として原寸大に復元しました。
有形無形で先人から受け継いだこれらの宝を次代に残すため、また多くの方々に知っていただくため全住民一丸となって頑張っております。機会がありましたらぜひお越しいただき、その姿をご覧いただければと考えております。

軍艦開陽丸 青少年の研修施設として復元。北海道をめざした幕末のロマンをいまに伝えます。
江差市街地とかもめ島 江差の歴史は海がもたらしたもの。その昔、左手の「かもめ島」が北前船を守る天然の港となり、江差の繁栄を築きました。
【能登川~江差の経路】

●テーバー町
[カナダ国]
テーバー町は、大都市に見られるような立派な公共事業や施設があり、また治安、友情、歓待のある町です。→本文へ続く

テーバー町民は質の高い生活、教育、医療設備を享受しています。
北アメリカの他の町からも羨まれるような低い税金と公共料金、治安の良さ、新鮮な空気と水、さらに手頃な住宅があげられます。
このような特徴や競争力のある小売業種やすばらしいレクリエーションの機会が重なり合うことにより、テーバー町民それぞれが望みにかなった生活を送っています。それゆえ、町民がすばらしい地元に対する精神を持ちえるのでしょう。
テーバー町は、将来におけるビジネスの顧客に対して、大小にかかわらず用意ができています。
我々の低い税金、質の高いサービスと高い労働意欲を考えてみますと、大企業であるロジャース・シュガー社やホステス・フリト・レイ社がテーバーこそが我が家だと呼ぶのも納得のいくところです。
灌漑技術やテーバーが南部アルバータ地域に位置するゆえ、食品加工が容易になっており、それが町の経済の原動力の一つとなっています。
テーバーに住んで最高のことは、この町が州の南部に位置するため日照時間が長いということです。テーバーの近隣は能登川を彷彿させます。しかし、年によっては能登川より多く雪も降り、冬の気候もより厳しいものといえます。
テーバー町長 ハーリー・フィリップス

【テーバー町役場】
【テーバー名物「広大なさとう大根畑」】
【夫婦で来町され、園児(ちどり園)の歓迎を受けるハーリー・フィリップス町長夫
妻(平成9年2月)。】

◆能登川の未来像 The future of Notogawa

◆能登川の未来像 The future of Notogawa(PDF 110KB)

●私達の能登川
水車・緑の町
私達が大人になったとき
どんな町になっているんだろう
たくさんの水車
おおきなビルがたって
いろんな施設もできていて
緑もたくさんあって
人もいっぱい集まって
すてきな町になるのかな
ドラゴンカヌーなども
いま以上に
さかんになったらいいのになあ

「みらいののとがわマップ」
能登川中学校美術部作品

●長勝寺 CHOSHOJI

●長勝寺 CHOSHOJI(PDF 258KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 91戸
■人口 320人

大字長勝寺は能登川町のいちばん東に位置し、如意山西端の一峰・長勝寺山を背に一級河川大同川の流れる水と緑に囲まれた穏やかな所です。長勝寺山には山寺・長勝禅寺があり、その由来は大変古く、慈覚大師の創立で天台宗の名刹でした。本尊は慈覚大師自刻による薬師如来像です。当時は12の坊舎が山麓に甍を並べ、壮麗を極めていましたが、永禄年間(約430年前)に織田信長の兵火にあい、12の坊舎も焼け落ちました。わずかに残ったものは本尊薬師如来像と長勝寺の額、石燈籠であったということです。僧侶たちは、食に困り還俗して農民になり、それより長勝寺という一村ができたと言われています。
その後、天保年間(1830~43)に京都臨済宗妙心寺派下、中本山瓦屋寺の香山和尚が諸国勧化の途中、当山に来泊し、薬師如来像の霊験著しいことを感じ伽藍を建立してその徒弟である祖印(当山二世中興)を住職とし、いまの宗旨(臨済宗妙心寺派)に改めました。明治8年(1875)に十世住職によって書かれた『長勝寺縁起由来書』には、280年を経たと記されています。
また当字には勧縄吊という珍しい行事があります。これは毎年1月10日に山寺で行われます(現在は最寄りの日曜日)。この日は壇家は全員、門徒は有志で、山寺に上がり太い注連縄(直径10センチ長さ8メートルの大蛇形)を作り、乎加神社よりもらいうけた七本杉の小枝ともちの木の小枝を小さく切り、細縄でくくった垂れを12房と杉の小枝を丸めた輪を3個作り大注連縄の中央部に太い割竹ではさんで固定し、祈祷された守護の護符をつけ、目玉の上部には御弊を各1本宛て飾り12の房には小さな御幣を沢山つけて仕上げます。それを本堂にて住職の祈祷を受けたのち山を降り字の入り口の道路・橋の上に張り渡し字の安全祈願をします。すべての行事が終わった後、全員山寺に戻り納豆汁で遅い昼食をいただき、帰宅するという、昔からの古い行事がいまも引き継がれて行われています。現在、長勝寺は年間行事等を通じて区民の交流を深め、明るい住み良い町づくりに力を入れています。

【長勝禅寺本堂・水子地蔵尊】
【勧縄吊】

●神郷 JINGO

●神郷 JINGO(PDF 258KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 95戸
■人口 400人

私たち神郷は、字のごとく神の里と言われ、乎加神社にまつわる古き伝説「神郷七本杉」「後二玄武の亀塚」と『三国伝記』にも記されている亀塚古墳が現存します。正楽寺遺跡の保護地区でもあり、歴史の古い地です。
神郷は、森村・計村(斗村)・郷村と3つの小字から成り、それぞれに神(神社)があったようです。乎加神社の祭礼も古式豊かで村の一大行事として語り継がれ、また大日如来像を祀る大日堂、古い地蔵和讃を唱える地蔵盆など昔からいろいろな宗教的行事も盛んな所です。
神郷の墓地は、新旧2つあります。旧墓地は御園山(和田山系)の山頂50メートル程の高さにあり、また参道は約100メートル程で、険しく急な坂です。その参道入口に「二石六仏」の六地蔵さんがあり、「乳あずけ地蔵さん」と呼ばれています。産後乳が腫ったときは、このお地蔵さんに一時おあずけすると乳の腫れが治まるという御利益があると言われています。また一石六仏・二石六仏地蔵さんは県下でも少なく約300年前に造られたものと伝わっています。神郷村も約300年前からの歴史があると言われているところから、お墓もその時代に作られたものと思われます。
お墓は共同墓地で土葬です。墓標を立て、古いところから始末し、村人(同行)が穴を掘る、どこを掘っても2つや3つの骨は必ず出てきます。また天候にかかわらず雨・雪が降っても輿をかついで涙をこらえ、親族はもちろん、お坊さんや会葬者も山頂まで棺を送ります。この古い「しきたり」をあらため、昭和42年(1967)にその山裾に新墓地が造成されました。各家ごとに分割され公園墓地として、自治区で管理しています。また旧墓地は毎年お盆の8月15日に清掃を行い、区民全員が墓参りし、法要をつとめ故人を偲んでいます。このように祖先を大切に尊び、古き良きことは残し、見直し、また現代的にと村改革に取り組んでいます。住みよい心のかよう村づくりのために、公民館、草の根広場を中心に活気ある活動を行っています。

【墓地入口にある二石六仏地蔵】
【乎加神社の裏にある亀塚古墳】

●佐生 SASO

●佐生 SASO(PDF 258KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 127戸
■人口 375人

明治8年(1875)に調べられた『近江國神崎郡佐生村地誌』の一部を抜粋してみます。

■近江國神崎郡佐生村
この村は昔は八条荘または垣見郷、あるいは佐野郷といった。林村・躰光寺村・猪子村・佐野村などがその中にある。
伝承によると、昔この地に泉があった。そこに涌く清水(シャウズと呼んでいる)は大旱魃や大雨の時も湧き出ることはいつもと変わらず、濁らず素晴らしい霊泉であるので、観音寺山の城主佐々木氏の祖先がこの地にやって来て、別館を設けた。
ところがここにおいて嫡子が誕生し、この泉で産湯を使ったので、「佐生木産湯の泉」と呼んでいる。(現在いまなお字里の中に残っている)

■区域
東は長勝寺村と灌漑用水路と野道をもって境とし、南は下日吉村と道路の中央と小川をもって境とし、西は同郡村と繖山の端を登り、山の背をもって境としてその村に隣接し、北は佐野村と道路と灌漑用水路をもって境とし、長勝寺村に対している。

■幅員
東西 4町42間(516メートル)
南北 6町10間(672メートル)
面積24町7反9畝11歩(24万5878平方メートル)

■地味
田んぼは乾いたり湿ったりしている土地が入り交じり、乾いた土地の上の土は黒いところに青赤色が混じり、下の土は赤色で砂礫が混じり、湿地の上の土地は乾いた土地と同じ色である。下の土は青色に砂礫が混じっている。冷たい泉がいつも湧いている。おおむね稲や梁の栽培には中等で、桑や茶には適していない。水利は便利であるが、大雨の時は洪水が田畑にあふれて植物に害がある。畠の上の土は黒いところに赤みを帯びていて、白い砂が混じっている。下の土は赤色であって中等である。野菜や雑穀を栽培している。

■神社
氏神はこの村の東の方の神郷村にある。郷社乎加神社と言う。豊遠迦比売神を祭る。神崎郡の二座の式内社の一つである。昔より産土神として崇敬し、一般に「乎加ノ宮」と言う。(佐生村、神崎村、長勝寺村、佐野村を言う)一切の物は皆この四カ村が持っているもので、祭事も四カ村が集まって決定した。祭礼の神輿は各氏で管理している。祭の日は3月上旬の申の日である。

■寺院
寶樹山浄土寺 境内は東西の広いところは17間(30メートル)、南北の広いところは12間(22メートル)、面積は186歩(615平方メートル)、寺はこの村の字南里の中にある。京都の真宗東本願寺派の末寺で、本尊は阿弥陀如来の立像である。もとは天台宗の寺であったが、その寺地はこの村の西、字山の下にあった時は隆盛であ
ったが、時代が下がるにつれて段々と衰えた。
第八世の蓮如より六字の名号を賜り、真宗に帰依した。その後天文12年(1543)、当寺の住職浄願の時、現在地に移り、寺を建築した。第十八世大静の時、境内に花の木の大樹があった。昔からの珍木である。

■学校
この村の西方の佐野村に学校を設立した。第三大学区、第十一番中学区、第五番小学区、又新学校と称した。

【浄土寺】

●佐野 SANO

●佐野 SANO(PDF 258KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 488戸
■人口 1,614人

■佐野-3000年
私たちの佐野区は、近年、急速に宅地化が進んでいます。地区中心部は変わりませんが、周辺部は現在でも田畑が住宅に変化している現状です。昭和30年代では戸数150戸程であったのが、現在(平成9年〈1997〉)では488戸に増加し、高層マンションもできました。栄町・東佐野・南佐野・堀切・大地は大字佐野地番です。
さて、佐野区に人が住み出したのは、縄文時代後期(いまから3000年程前)からと言われ、人々の生活が始まり、いろいろな暮らしがあり、現在に至っています。
区内の遺跡調査により、縄文、弥生、奈良時代等の遺物が出土したことから、太古より人々が生活していたことがわかります。また、最近の法堂寺遺跡の発掘調査により、白鳳時代(680年頃)に五重塔をもつ寺院が存在していたことがわかりました(現存の奈良薬師寺よりも古い)。この頃から、佐野地区が湖東平野の中心部であったことが、うかがい知れます。法堂寺遺跡は、遺跡公園として、後世に保存・継承していくために整備が進められています。
佐野区においては、文化祭を毎年秋に開催しています。その際、「昔の忘れ物」(平成6年)「戦後50年」(平成7年)「佐野の生い立ちと法堂寺遺跡」(平成8年)等をテーマにして来ました。区民の作品(絵画・写真・手芸・生け花・盆栽・その他)等を展示したり、お茶席を設けたりして、区民の親睦を図っています。
また、有志により区内に生息する「ハリヨ」を展示し、自然を守ることの啓発と文化活動にも取り組んでいます。

【字の文化祭】

●種 TANE

●種 TANE(PDF 259KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 122戸
■人口 490人

■種の御管神事
この神事は、年の初めに五穀豊穣を祈り、また竹筒に入った粥(しるかゆとかたかゆとの間ぐらい)の状態でその年の作物の状況を占う神事です。
神事は1月15日朝6時30分に、宮世話(村民より2年の任期で選ばれ、半数ずつが交代)6人が集まり準備を行います。
供え物は、洗い米、小豆、塩水、スルメ、竹筒7本で本殿内陣の三方の上に置きます。米は、以前は神田で作られていましたが、いまでは宮世話の持ち寄ったものを使います。
竹筒の竹は、しのべ竹と言われる種類のもので、福堂地先の土手で採れます。竹は長さ15センチ、直径2センチぐらいのもので、両端をななめに切って、粥が入りやすくしてあります。竹には鋸で刻み目をつけ、素焼き状の土器にのせます。かまどと玉串は本殿下の階段横に置きます。
午前7時に、宮司を先頭に宮世話は本殿前に向かい、奉告祭を行います。参列者は、普段着で円座にすわり、その前に扇子を置きます。皆がお祓を受けた後、この「御管神事」が行われ、代表が玉串を捧げます。
祭事が終わると、お供え物をさげてカマド(くど)で、お供え物を焚く用意をします。使うカマドは、直径30センチ、高さ26センチの瓦製で、それをブリキで覆った木製の台の上に乗せます。また、カマドの上には、鉄製の釜(直径21センチ、深さ20センチ)を置きます。
準備ができると、釜の中に水を入れ、火をつけます。まきは、森の中の枯れ枝を使います。湯が沸いたところで洗い米(6~7合)と、小豆(8勺~1合)を入れ、ふき上がった頃に7本の竹筒を入れます。炊いているうちに米と小豆が竹筒の中に入っていき、できあがるまでに30分~1時間かかります。
炊き上がった粥はカマドのまま、社務所まで運ばれ、竹筒を釜から上げ、皿に乗せて判定する場所まで運ばれます。
評定は9時頃から行われます。上座に区長、左右に当人、農業委員、評議員、宮世話代表などが座ります。宮世話の長が、まな板の上に竹筒を1本ずつのせ、横にした竹筒の上部3分の1ほどを、はぐようにして包丁で切り、中が見えるようにして、三方に乗せていきます。三方に7本そろうと、評定衆が見て判定をします。
判定の目安は次のとおりです。
・米と小豆の混入具合。
・中身のつまり具合-バランスよく詰まっているか、空洞になっていないか。
・小豆は「みよさ」(実の十分に熟していないもみ)をあらわすので、小豆は少
ないほどよい。
判定が決まると、それを表にして、再び合意を求めます。この判定が決まると評定に加わらなかった宮世話が、分担して竹筒(御管)の表に上・中・下の印を押します。また、炊いた粥は飯茶椀にもって、評定衆と参加者に振舞われます。
その頃になると、氏子の農家の人が参拝し、米を納め御管の表をもらって帰ります。この評定の結果を見て、農家は本年の作付の参考にしますが、とくに「上々」
という結果の出た作物は豊作疑いなしと言われています。
またこの御管表は額に納められて、社務所の壁に1年間掲げられます。

【白鳥神社拝殿】

●今 IMA

●今 IMA(PDF 259KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 179戸
■人口 570人

先人の防災および生活に関する都市計画の発想に学ぶ
記述によれば永禄11年(1568)頃、「佐々木六角氏の観音寺城にありし時その臣、今村民部上林藤十郎、本村に屋敷(現在の政所小今村の台地状の屋敷跡:現畑地)を構え氏となす」とあり、その発祥をいまに伝えています。
大字今では、100年前、村落の大半を消失する大火にみまわれ大きな被害を出すこととなりました。いまもこの出来事は、今天満神社の「鎮火祭」という神事によって語り継がれています。また、近くを愛知川が流れ、たび重なる水害には古くから悩まされ続けてきたことも、現存する集落の形態に大きな影響を及ぼす要因となりました。
それ以前の区の形態については、残された資料等は見つかっていませんが、現存する区の区画に、先人の防災と生活に関する都市計画ともいえる発想が見受けられることは、我々の大きな誇りとなっています。
その特異な区画整理は、区の東西端に南北に配置された2本の外周道、それらを梯子型に結ぶ村中道路とそれに平行していくつかの水路(河川)を配置(地図参照)しています。村中道路に沿って各戸が建ち並び、各戸には敷地の前か、もしくは背後のどちらかに必ず水路(河川)が隣接するように配置されています。かつてはそれぞれの家庭の上水道や生活用水、そして防火用水の供給をも可能にしていたものと考えられます。
現在でも新規に分譲される多くの住宅地はおおよそこのようなスタイルで開発されますが、100年前にすでにこうした都市計画の思想を取り入れた区画整理が、一地方の小地域で行われていた事実には驚きます。

【水路配置図】
【現在も残る当時の区画整理】
【計画的に造られた水路】

●垣見 KAKIMI

●垣見 KAKIMI(PDF 259KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 147戸
■人口 483人

私たちの住んでいる垣見の発祥は古く、古代には神崎郡六郷のうち「垣見庄」として和名抄に記されています。
垣見は、古くは花垣の里と呼ばれ、花に囲まれた美しい集落で、自然環境に恵まれた、湧き水豊かな緑の素晴らしい郷であったと伝えられています。
いまも、その名残りのとおり、湧き水豊かな清流に恵まれ、そこに絶滅の危機にあるといわれている全国的にも貴重な魚ハリヨがすんでいます。
私たちは、そのハリヨの保護活動とともに住みよい環境づくりをめざし、平成3年(1991)度に「創意と工夫の郷づくり事業」の県、町の助成を得て、湧き水のある川の一部を拡幅し「ハリキンの池」を造り、その保護育成と集落の環境づくりにも努力をしています。
当地域には、古くより条里制がしかれ、一ノ坪、二ノ坪等の呼称が多く残っていました。しかし土地改良総合整備事業によるほ場整備により、条里の遺構がほとんど消えたことはさびしい気がします。時代の変遷に伴い農業をとりまく状況も大変厳しくなり、時代に即応した農業を営むため、平成元年(1989)度から平成5年にかけて大型機械の導入にも適したほ場になりました。
この事業と並行して平成3・4年度で集落営農ビジョンを策定し、整備事業の集落指定を受け、国、県の補助を得て、整備事業に着手しました。もうからなくても損をしない、機械ビンボウの防止をめざして、みんなで知恵を出し合ってがんばろうということで営農組合を結成し、集落営農に取り組んでいます。
交通面では、明治22年(1889)国鉄東海道線の開通に伴い、能登川駅が大字垣見と大字林の境界線上に設置されました。その当時は蒸気機関車であり、水のきれいなことから、水の充填駅を能登川駅にされたと聞いています。また、古くは主要道路として、垣見区内を松街道(朝鮮人街道)が通っており、交通の便利さにも恵まれ発展してきたことは、先人のご苦労のおかげだということを感謝しながら、この地域を大切にしていきたいと思います。

【土地改良総合整備事業ほ場整備竣工記念碑】
【垣見営農組合格納庫】
【ハリキンの池】

●本町 HONMACHI

●本町 HONMACHI(PDF 259KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 315戸
■人口 989人

■本町の履歴書■
明治22(1889)東海道線開通に伴い能登川駅設置(当時民家4軒)
29(1896)近江製油(奥田製油)、大字林に進出。大水害、大雨が6日間も続き、床上・床下浸水で1カ月も泥水との生活
30(1897)この頃より駅の存在により商家急増、道路形成される
35(1902)浜能登川に続き、駅に近い林18番地に郵便局開設
大正5(1916)氏神恵比須神社建立(社伝によれば猪子村山上より勧請)
6(1917)神崎クラブ(公会堂)落成(駅前だけでなく広く郡内とくに五個荘の方利用)
10(1921)駅を中心に日本カタン糸・近江蚊帳・江洲商事が進出。工場進出や商業活動成長で能登川駅営業面でも急発展
昭和6(1931)太子堂の建立に続き近江上宮会館と改め財団法人に切換え
10(1935)能登川駅大改装、近代的な構築がなされる
14(1939)駅前50年記念式典開催
17(1942)能登川町誕生(五峯村・伊庭村・栗見村・能登川村・八幡村が合併)
50(1975)新明町(末広町以東)本町区に編入
53(1978)区画整理推進委員会発足
59(1984)暴力団関連事件発生するも関係者の努力で追放
平成1(1989)駅前100年記念イベント開催
3(1991)区画整理事業認可を受け本格的事業スタート

【得意な作物】新鮮卵(未来にはばたく子どもたち)
【特技】会う人を元気にし日々進歩発展(商の観念をそのまま日常生活に直結)
【できるスポーツ】なんでもトライする(現状打破の意欲にもえている)
【健康状態】良好なるも加齢による支障、とくに商店街の地盤沈下はさけられない
【趣味】「であい」一筋です(出会った人たちに愛)
【自慢】どんなときにもくじけない根性!地域交通の中心地!

■ディスカバーすてんしょ
シャイな性格の私(行政区)は、いままで自己主張するのが苦手でした。今回の履歴書提出をきっかけに、思い切って自分を売り込みたいと思います。まず近隣町内の方々に区画整理が着々実行されている駅前を見直していただき、最良の環境の中、自然体で駅とともにスクスク育まれた「私」の良さを知ってほしいと思います。
これからも「すてんしょ」本町区に、より御理解と末長き御昵懇を!

【整理された旭町の一区画】

●猪子 INOKO

●猪子 INOKO(PDF 227KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 191戸
■人口 595人

■字名の由来
大昔、武内宿禰の死後、土地の人々はその魂を祀って猪子大神として崇敬していました。その頃、土地の林の中に老いた白い猪が三頭すんでおり、土俗の神のお使いの動物と言われていました。後に和泉忠衡(三郎と称し、藤原秀衡の三男)が猪子大神を尊信し、この話を聞いて猪の子三頭を献上しました。そのためいつしかこの土地を猪子と呼ぶようになったと伝えられています(藤原秀衡は奥州の豪族です)。『猪子の歴史』より

■春祭り(夜空を焦がす火祭り)
毎年春祭りの宵宮の夜に行われる行事です。各家に配られた松明(長さ約2メートル太さ15センチ程度のもの)を持って山の下より火をつけて登ります。
山の中腹では「山上り」という若者3~4名により、上山天満天神社の中から「山」や「上山」等のいずれかの文字に火をつけ夜空にあかあかと浮かびあがらせます。そして松明を持って山を登った行列は、本殿前に集まり参拝者が待つうち、縦、横、高さそれぞれ4メートル程度に作られた大松明に、神官の祝詞奏上と同時に点火され、氏子中のたたく祭囃子とともに火の手が上がります。炎の先端は約10メートルの火柱となり祭りは最高潮に盛り上がるのです。

【猪子散策】
猪子山
北向十一面観音
磐座
岩船神社
古墳群
胎蔵寺
地蔵堂
正福寺
上山天満天神社

【祭囃子をたたく氏子】
【春祭り(宵宮)】

●日清紡社宅 NISSINBO SHATAKU

●日清紡社宅 NISSINBO SHATAKU(PDF 227KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 14戸
■人口 45人

日清紡は今年(平成9年〈1997〉)創立90周年を迎えました。能登川工場も昭和19年(1943)に前身の湖東紡績から引き継いで50年余りがたっています。
日清紡社宅がいつ頃から能登川町の一つの行政区として参加させていただいているのかは定かでありませんが、長年にわたりたいへん数多くの従業員および家族が町の皆様のお世話になってまいりました。一時は1000名を超えていた従業員数も現在は 200名以下となり、また近隣に自宅を建てて移った世帯もたくさんあって、社宅の戸数はだいぶん減りました。現在では町の中でも最も世帯数の少ない区となっています。そのため、町民運動会等では選手集めに四苦八苦していますが、毎年そこそこの成績を残しており、これからも少数区ならではのチームワークのよさを発揮して、頑張っていきたいと思っています。

【日清紡社宅の家並み】

●林 HAYASHI

●林 HAYASHI(PDF 227KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 90戸
■人口 293人

我が行政区「林」での「汗かき地蔵」の物語です。
現在、我が「林」の字内の片隅にお地蔵さんが祀られています。
このお地蔵さんは別名、「汗かき地蔵」と呼ばれています。しっとりと汗をかかれたときは、地震のような天地の異変など、何か悪いことが起こるといまでも伝えられています。
幼い頃、汗をかいておられるお地蔵さんを見たことがありますが、悪いことが起こったかどうかは定かではありません。
でもこのお地蔵さん、一回引っ越しをしておられ、元々は現在のお宮さん「天神社」の所に祀られていました。どのような事情によって、現在の所に祀られたのかはわかりません。また、お宮さんは(いま新しくできたナイスタウン林の北側の「三の宮」という地名)の所に祀られていたということです。
以上の物語はご近所のお年寄りに聞いたお話です。とにかく字では大事にされているお地蔵さんです。

【現在のお宮さん「天神社」】
【汗かき地蔵さんの祠(ほこら)】
【汗かき地蔵さん】

●能登川 NOTOGAWA

●能登川 NOTOGAWA(PDF 293KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 189戸
■人口 675人

■地勢と地名
東に琵琶湖国定公園の中の繖山を、西に伊庭内湖を望み、南は安土山に囲まれている景勝地です。能登川の地名の起こりはわかりませんが、アイヌ語の能登は「ノット」で岬の意味があり、地勢上から名づけられたと思われます。

■町並みとシンボル協議所
400年前に計画的につくられた村です。町並みは朝鮮人街道に沿ってきれいにならび、生活水路も道を中心として東西に整備されています。明治時代の建築物「協議所」は、村のシンボルであり村行政の事務所で、情報の収集・発信地としての重要な役割を果たしています。

■御殿地と春祭り・ゲートボール場
村の北東部には、江戸時代の将軍上洛施設の遺跡が残っています。この遺跡を村では「御殿地」と呼び、村の鎮守愛宕神社のお旅所となっています。春祭りには、中学1年生の女子生徒が舞姫となり、その舞う姿は祭りをいっそう盛り上げています。また、御殿地の一部はゲートボール場として整備され、老人の健康と生きがいの場に利用されています。

■能登川港跡は愛宕神社・遊園地
昔、穀物輸送の港がありましたが、いまは愛宕神社が鎮座し、その南側は遊園地として整備利用されて、憩いの広場となっています。
この広場には桜が多く植樹されて、春祭り頃は爛漫と咲き誇り、また、西小学校より移植された藤の木が立派に生育し、毎年見事な花を咲かせて区民の心をなごませてくれます。

【御殿地】
【能登川協議所 石門は明治6年(1873)開校の学校跡】
【能登川港跡の遊園地】

●安楽寺 ANRAKUJI

●安楽寺 ANRAKUJI(PDF 293KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 39戸
■人口 146人

安楽寺の歴史は古く、また村そのものの歴史もはっきりしていません。寺は繖山無量院安楽寺と号し、聖徳太子の開基と伝えられ、比叡山横川楞厳院恵心院の末寺です。また、本尊千手十一面観音像は、聖徳太子の作とされ、多くの僧坊(三十三坊)があったとも言われ、推古天皇や聖徳太子ゆかりの湖東の大寺も、天正4年(1576)4月の織田信長の兵火、その後2回の火災によって残念ながら、すべての堂塔を焼失しました。
また、安楽寺には、『八王子法橋伝来文書』という古文書があります。これは、法橋五人衆という制度があり、村の五人の長老が就任し死ぬまで資格があります。
最長老の人が法橋となり、古文書箱を受け継いでいきます。その古文書には、中世からの安楽寺のことが記述されています。安楽寺と八王子社(伊庭の坂下し)との関係も深く、仏教的な色彩が強かったこともうかがえます。
安楽寺は、このような歴史ある村で、安楽寺内の公園では四季折々の花をみることができます。春には、桜・すいせん・さつき、また秋には、紅葉も色あざやかです。
歴史と自然豊かな安楽寺へ、一度訪れてただきたいと思います。

【安楽寺】
【安楽寺の集落】
【繖峰三神社】

●北須田 KITASUDA

●北須田 KITASUDA(PDF 293KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 41戸
■人口 142人

“古文書が語る氏神の歴史”
―守国神社と徳川の旗本三枝氏

北須田の氏神、守国神社には祭神の三枝守国とその家系に関する古文書が数多く残され、これに基づいた社歴が社務所前の石碑に刻まれています。この『三枝家文書』と明治初期に書かれた『守国神社永代記録』等から、再度社歴を検証し、石碑の文に少し補促を試みました。

■三枝氏とは
初代三枝虎吉は甲斐国(山梨県)で武田信玄の重臣でしたが、長篠の合戦で武田氏滅亡後は徳川家康に仕え、代々幕府の直参旗本となりました。元禄11年(1698)に6代目守相が領地替えで近江三郡(神崎、蒲生、野洲)内に合計7000石を知行、内2000石の伊庭に代官所を置きました。これを伊庭陣屋(謹節館のあたり)と言い、北須田もこの時点で三枝氏が領主となり、その支配下で明治に及びます。

■守国神社の祭神は
祭神の守国命はこの三枝家の元祖で遠く平安時代仁明天皇(833~850)の頃活躍した清和源氏の流れをくむ武人で、先祖代々この守国を大明神として江戸屋敷で祀って来ました。前述の三枝虎吉は守国より24代目に当たります。

■守国神社が須田に遷座の経緯
明治維新で采地(領地)奉還、一士族となった三枝守道・守経父子が江戸屋敷より近江に移住するに当たり、代々崇敬して来た守国大明神の奉供に深く心痛していました。一方、当時北須田に氏神がなく、かつ、維新後の分村(伊庭村の枝郷より分離)問題ともからみ、双方のおもわくが一致、東京に店を持つ深田輿三兵衛氏の計らいもあり、明治2年(1869)に御神鏡・由緒系図・当地への遷座證文などを村民挙げてお受けし、現在地に神社を移しました。

■村社としての格付
遷座当時は、須田川堤の林草地でしたが、地主の人々の寄進および村中の奉仕等により開地、以後順次整備され、明治12年に本社殿を造営鎮座しました。明治14年には村社の資格を得ています。その後も氏子の崇敬厚く、昭和初期に多くの篤志家により、現在の姿となりました。

【集落の中心をはしる朝鮮人街道】
【遷座證文】

●南須田 MINAMISUDA

●南須田 MINAMISUDA(PDF 306KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 37戸
■人口 149人

南須田発「南の玄関・やわらぎの郷1997」
村の北側によく知られる境界石があり、石碑には「従是南そう見寺領」とあります。
もともと南須田はそう見寺の領地であったので、蒲生郡に属していましたが、明治15年(1882)の行政区画統合の際、神崎郡に編入、現在は能登川町の南玄関に位置しています。また、村内中央には超光寺の本堂があり、室町末期を代表する建築物として県指定文化財の表門があります。
東の方角、観音寺山麓にある五十餘州神社は通称「ごんじょうじさん」と呼ばれ観音寺城佐々木六角の歴史にもつながりをもっています。とくに春祭りの様子は興味深いものがあります。宵宮には社に至る参道を神輿、大太鼓、小太鼓、鐘が、松明をかざす行列の中を祭ばやしもにぎやかに練り上がります。その様は実に勇壮で往時の絵巻を想起させます。
村の南の入口には法華塔が建ち、中には大乗妙典を一字一石に刻んでまつってあります。毎月16日には村人が交替で法要をなし、塔の前には年中香華がたえません。
南の山麓一帯は昔、須田の梅林で有名でしたが、いまは町の手で「やわらぎの郷公園」として整備され、能登川町民安らぎのコーナーとなっています。
以上、小さいながら伝統的に村民の神仏を崇め敬う心は篤く、老若いまも人情に厚く礼をわきまえる良習を遺しています。人の心同様、時代の荒波に抗して後世に自然の良き環境を残し伝えることができるかどうかは、これからの人々の大きな努力にかかっていると言えます。先祖の努力と願いを将来につなぎたいと思います。

【五十餘州神社】
【超光寺と往時の機関車の勇姿】
【春の祭りばやし】

[注]そう見寺の「そう」の字はJIS漢字コード中にないためにひらがな表記しています。

●伊庭 IBA

●伊庭 IBA(PDF 306KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 313戸
■人口 1,323人

伊庭は、能登川町の南西部に位置しています。昔は1村1集落で行政を行ってきましたが、昭和17年(1942)能登川町の誕生に伴い、その姿も少しずつ変わりつつあります。
農業を主とした静かな田舎の集落でしたが、近年とみに進められている都市化の影響を受け、住宅開発が進み、田畑も少なくなりつつあります。昭和63年より農村総合整備モデル事業として字内の河川の改修が行われました。ひと昔前は田舟が交通の主役でしたが、現在不用の河川は道路に改良されて、車社会に影響され道路幅が広くなり、大変便利になりました。
伊庭を語る中に祭りがあります。伊庭祭りは「坂下し祭」と言って近隣に知られた奇祭です。3基の神輿がつぎつぎに険しい山腹の道を下って行きます。道と言っても道らしい道はなく、ただ歩くだけでも石ころに足をすくわれて何度も転びかける道です。途中には巨石が露出した断崖状の難所が何個所もひかえており、「宮出し」「衣掛の岩」「吹き上げ岩」「屏風岩」「本堂抜け」「瓜溝」「台懸」「二本松」「長番場」「鳥居前」などの個所を若衆達は一つ一つの難所に挑戦し、互いに協力し合いながら慎重に、しかも大胆に神輿を引き下ろしていきます。一瞬の油断も許されないのです。周りで声援を送る見物人も、しばしば息を呑むようなスリルに満ちた光景が展開します。この坂下し祭は昭和57年3月31日に滋賀県教育委員会により無形民俗文化財として選択を受け、今日に至っています。また大浜神社境内の仁王堂は鎌倉時代前期の建立と言い伝えられており、町内でも数少ない貴重な建造物です。
身近な環境づくりとしては、平成3年(1991)より字内の川に鯉を放流しました。
鯉の泳ぐ姿は優雅であり、雄々しく見えます。

【伊庭の坂下し】
【県指定文化財・大浜神社の仁王堂】
【集落内の川を泳ぐ鯉】

●山路 YAMAJI

●山路 YAMAJI(PDF 297KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 305戸
■人口 1,070人

■御祭神
・主祭神 天常立命 菅原道真公
・配祀神 天穂日命 岩船大明神
・合祀神 応神天皇(八幡大神)

■上山神社の由緒について
いま私たちが鎮守の神様として尊崇する上山神社は、現在保存されている古文書によれば、天慶4年(941)の創建で、1000年を越える歴史を有する神社です。往古より五穀豊穣の神として敬られ、また佐々木氏の居城観音寺城の北表の守りとして崇敬厚く、八ヶ郷(山路・伊庭・小川・躰光寺・垣見・佐野・猪子・林)を氏子とする惣社でありました。かつて菅原道真公が勅使として敦賀の国の気比神社にご参向の節、上山神社にご参拝になったので、その尊霊をお祀りし、さらにお旅所にあった八幡堂のご神霊(第16代応神天皇)を合祀されたと伝えられています。応神天皇は本地垂迹によれば八幡大菩薩で、弓矢の神様と言われ、とくに武将の帰依が厚かったとのことです。
社名はその昔、若宮天神・上山天神・大宮と称し、明治の始めに上山神社と改称されました。社殿は元亀2年(1571)兵火により焼失し、同時に地頭職山路右馬亮の山路城も焼失し、その面影をとどめるものとして小字「城」「城西」「城前橋」などが残っています。社殿はその後、文政元年(1818)に再建され今日に至っています。社宝には、大般若波羅蜜多経、懸仏などがあり、文化財に指定されて後世に伝えるため大切に保管されています。
20世紀も終わりに近く、人心は荒廃し、国を憂うこと切なる時代となりましたが、古代から未来につながる上山神社の由緒を伝承し、末永く村人が上山神社を崇敬し心豊かな精神生活を送る糧とすることを願うしだいです。

【山路の遠景】
【春季祭典の宵宮】

●躰光寺 TAIKOJI

●躰光寺 TAIKOJI(PDF 297KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 365戸
■人口 1,303人

私たちの行政区は、能登川町のほぼ中央に位置し、町役場や教育文化交流の場としてのやわらぎホール、勤労者会館等が存在しています。また、西郡神社、国領子安地蔵尊、能登川町の有形文化財に指定された弘誓寺表門が点在し、東西に小川が流れる水と緑の豊かなところです。
区民相互の親睦を図るため、区民運動会、バレーボール大会、三世代交流のグランドゴルフ大会などのスポーツ大会、そして昔から続いている西郡神社の大祭などを行っています。また、総出で行われる環境作業等を通して、明るく住み良い躰光寺作りを目指しています。

■紹介します-国領子安地蔵尊の由来
1本の大木から3体の地蔵が刻まれました。その各々に彩色が施され、その中の1体がこの地に祀られています。安産の祈願や母乳を授かるように、いまも、区民の信仰の対象として息づいています。

【弘誓寺表門】
【西郡神社】
【国領子安地蔵尊】

●小川 OGAWA

●小川 OGAWA(PDF 297KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 176戸
■人口 700人

弥生時代から栄えていた弥栄の小川
■小川(宮の前)遺跡
約2000年前の弥生時代中期から後期にかけて、すでに人々が住み着き、農耕や狩猟・漁撈の生活を営んでいたことが判明しました(昭和54年<1979>発掘調査)。
弥生中期の方形周溝墓や人工の溝が発見されており、木棺の中から若者の骨や歯が、さらに祝い櫛・瓶・壷なども出てきました。また倉庫跡、装飾品、および高杯・土師器などの土器なども発見され、この時期すでに集団で稲作中心の農業が行われていたことも確認されています。

■室町中期の蟇股・木鼻
八宮赤山神社の祭神は宇多天皇の皇子敦実親王(近江源氏の佐々木氏の祖)です。
神社の建立の年月ははっきりしませんが、本殿正面の向拝の欄間にある蟇股や左右の木鼻は、室町時代中期の作と言われています。数度の改築の際も、一部補修はされたものの、原形をとどめ現在にいたっています。平成4年(1992)と5年の修復工事においても慎重な取扱いにより、工事が進められました。

■小川土佐守祐忠の小川城
元亀2年(1571)9月1日、織田信長の軍勢が湖東へ攻めてきて、時の小川城主小川土佐守祐忠に対し、城の明渡しを迫りました。祐忠は7人の人質を出して降参し、赦免されました。このため村は焼け払われず、ほかに犠牲者を出すこともなく救われたのです。
祐忠は後日信長、秀吉に仕え、伊予国(愛媛県)の城主にもなりましたが、関ケ原合戦(1600)では西軍(豊臣軍)の武将として2000人の兵を従えて参軍しています。集落東部の小高い丘に小川城址があります。そこはいまも城の瓦が出土し、往年の城址と伝え、「城の内町」の名を残しています。

【弥生式土器(小川・宮の前遺跡)】
【城址から発掘された城の瓦】
【向拝所 蟇股(八宮赤山神社本殿)】
【小川城址】

●川南 KAWAMINAMI

●川南 KAWAMINAMI(PDF 297KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 74戸
■人口 323人

■わがまち川南宇佐神社の今昔
毎年、春と秋に行われている宇佐神社の大祭と、私たちの字について紹介します。
この祭りは、かつては「栗見十郷の川原祭り」と称され、愛知川をはさみ、能登川町側は、川南、福堂、乙女浜、新宮東、新宮西、阿弥陀堂、彦根市側は本庄、田附、三ツ谷、新海の10カ村の6社が栗見大宮天神社前に集う合同の大祭で、盛大を極めるものでした。この栗見大宮天神社は社記によれば、長徳3年(997)に現在の地(新宮西)に遷宮されたとありますので、約1000年の歴史があります。また文献によれば、大宮天神社前における6社の神輿の配置も決められていたことがうかがわれます。その後、幾度かの変遷をへて昭和30年(1955)頃の秋祭りを最後に、この形による栗見川原祭りは途絶え、現在では、毎年の春秋の祭礼前に、旧栗見十郷の自治会長が集まって、祭礼の期日を決めるだけとなっています。
こうした中にあっても、川南の氏神である宇佐神社の宵宮に奉ぜられる太太神楽の囃子となる、太鼓、笛、羯鼓、拍子木、擦がねは、氏子の若中と呼ばれる若衆により奏でられます。また、これらの楽器の奏で方は、いずれも若中の連中という組織により今日まで脈々として受け継がれており、伝承文化そのものです。ある時はこうした伝承の場は、人間形成の場となり、またコミュニケーションの場でもあり、心のかよい合う町づくりの一つでもあるのです。
私たちはいま、長い歴史の中で、幾世代もの間、先人たちにより伝えられた祭りという文化の重みを改めて感じるとともに、次の世代へのよき財産として伝承したいものです。

【宇佐神社春祭の御渡】
【宇佐神社春祭の宵宮における太太神楽】

●阿弥陀堂 AMIDADO

●阿弥陀堂 AMIDADO(PDF 297KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 52戸
■人口 190人

伝統が息づく阿弥陀堂
■大仏様の村
当字は、愛知川の下流近く緑の多い、静かな農村地帯です。
私たちの村は、立派な木造阿弥陀如来坐像を本尊とした仏閣を有し、村民の信仰の中心としてお守りしています。
『近江輿地誌略』には「此村里ハ、志村ノ北東ニアル里ニテ、愛知川ノ端ナリ、往古此所ハ、大伽藍地ニテ、阿弥陀佛ノ堂有ノ地ナリ。依之、村号トス。山門繁昌ノ時分ハ、山法師、竹中妙貫院、竹中築後守等居城。則古城ノ跡在リ」(中略)「佛閣、此堂有ヲ以テ村号トス。」と結んでいます。

■仏閣としての伝承
親縁山光照寺は天台の大坊でした。しかし、寿永元年(1182)と元亀元年(1570)の2度の兵火に焼失し、本尊のみを残しました。「本尊阿弥陀佛を兵火より守る為に、堂が池に沈めて焼失をまぬかれ、七十有余年を経て、池中より光明を放つ不思議により、此池を掘るに大佛様の出現を見る。当時、大洲村であった字名を阿弥陀堂と改称する。」とあり、この地に仏閣を創建しました。
『光照寺縁起奉加帳序』によると、「神崎郡、栗見庄阿弥陀堂、光照寺は、行基菩薩の創造なり。本尊は、即ち西方極楽の教主、阿弥陀如来也、行基菩薩の作也。然れば年代久遠而して、其の縁起を知らず唯、人口の伝説する所。所舌往者は、佛閣厳飾にして彩画地を照し 尊容巍々として、光明天に輝く、僧房美麗、百字軒を並べ、佛法弘通の繁昌の霊地なり。」とあります。
昭和48年(1973)9月23日、本坐像は有形文化財として能登川町の指定を受けています。
村民、久しく本尊を大切にして、心の依りどころといたしたいと念じています

【阿弥陀如来坐像】
【親縁山光照寺】

●新宮東 SHINGUHIGASHI

●新宮東 SHINGUHIGASHI(PDF 217KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 55戸
■人口 236人

私たちの字、新宮東には毘沙門堂や地蔵堂があり、伝統的な行事が数多くあります。その中のひとつに左義長があり、毎年1月15日に前髪(12~14歳の男子)が中心に行います。これからもこの伝統ある行事を大切に守っていきたいと思います。

タイマツ
細竹(130~150本)、ワラ(約50束)、太竹(3本)などで組み立てます。(最近竹も少なくなりました)

毘沙門堂
新村城主および村民の守り本尊として貞和5年(1349)9月に建立されました。

吉祥さん
0~7歳位の男児のいる家庭で、字が上手になり健康であるように願いを込めて作ります。

0~7歳位までの男児の父親が吉祥さんを焼き、より高く舞い上がらせます。(高く舞い上がるほど縁起がよいと言われています)

各家庭でお正月や1年間使用したお守りやお札を燃やします。王地神社よりの燈火にて火をつけます。(雪や雨が降ると大変です)

●新宮西 SHINGUNISHI

●新宮西 SHINGUNISHI(PDF 217KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 73戸
■人口 271人

私たち新宮西(通称=みやにし)の世帯数は、73戸(6組編成)、人口は271人です。そのうち、田園地域であることから、農家戸数は41戸です(約359反)。最近の農業問題を解消するために、平成5年(1993)度から営農組合を発足させ、「儲からなくても損をしない農業」をキャッチフレーズに、農家全戸で取り組んでいます。
字の行事では、愛知川が隣接していることから、春と秋には「川原祭り」が挙行されます。古くは、対岸の彦根市側と同時に行われていたものです。能登川町側のこの祭りは、5行政区(福堂・乙女浜・新宮東・新宮西・阿弥陀堂)が、一堂に会して盛大にとり行われており、神輿をかつぐ番が、3年に1度まわってきます。その番が来ると、いろいろと趣向を凝らして渡御しますが、新宮西(新宮東と合同)は、昔からのしきたりにより、派手にすることなく、とり行っています。しかし、こうした祭りの行事は楽しいものがありますが、また反面、愛知川沿いであることから、台風等による河川の氾濫が心配されます。一日も早い改修を……。
ほかには、区民親睦運動会・地蔵盆・敬老会等の事業があります。また、婦人層で「趣味の会」等が組織され、花いっぱい運動などが行われております。老人層では、平成8年度から「ゲートボール」に取り組んでいます。スタートが随分遅れましたが、こうした取組みが、これから到来する高齢者社会への対策の一助になることを期待します。また、婦人組織・老人組織による消防自警団があり、毎月1回消火訓練を実施して、字の防火意識の高揚に一役かっています。
茶粥の発祥は、乙女浜と聞いていますが、当字も酒席時やとくに冬期には、各家庭でいただく習慣があります。(1度ご賞味あれ!)
また、最近は若者の字離れ現象が深刻な問題になりつつあります。今後の字の運営にも支障をきたす恐れが出てくることが考えられることから、いま住んでいる我々が、住みよい村づくりのために……「ガンバ!」。

【区民親睦運動会】
【花いっぱい運動】

●乙女浜 OTOMEHAMA

●乙女浜 OTOMEHAMA(PDF 217KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 149戸
■人口 665人

■沿革
乙女浜は、およそ820年の歴史があると聞きます。当初は内湖中の一島村が浅瀬よりしだいに埋立られ、果てに陸地続きとなりました。元禄の始めは戸数129戸余、人口 630人余、明治13年(1880)には戸数166戸、人口771人(農家151・商家10)、保有船舶205隻。

■農業
農作業には田舟は重要なものであり、農家は最低1艘以上を保有し、島地の耕作田はすべて田舟で人間・稲苗・穀物・稲藁等々の運搬の役目と農作業の足でした。
陸地続きの耕作田でも運搬の役目を大きく果たしていましたが、昭和39年(1964)および51年の土地改良事業により農機具は大型および強力化し、まさに機動力の時代となりました。

■納税
町役場管轄の諸税の納税は大正の初期から我先にと会議所(区長事務所)へ納められました。しかし勤め人が増え、朝の納税は出勤時間と重なり忙しいため、平成元年(1989)より夜8時から9時までと変更されましたが、納税時間30分前には人の行列ができます(納付書は毎月15日頃に各家庭に配布されます)。

■当番祭礼
区には浜之神社という氏神があり、別に新宮東、新宮西、阿弥陀堂、福堂、乙女浜の5カ村が氏子である栗見大宮天神社が新宮西に鎮座されます。当番祭礼とは新宮東、新宮西、次に福堂、続いて乙女浜と3年に1回の割で回り来る春祭りです。
阿弥陀堂は毎年秋祭りが当番祭礼となります。区の当番祭礼の儀式は、すべて古例通りですが時代の流れとともに多少変化の途をたどっています。祭礼当日は0歳から60歳までの男子は総出で、他の市町村在住の区出身者も帰村して祭礼に参加をする程です。
当番祭礼は宵宮からはじまり、当日の後宴まで主役若衆は延々と10日余り時を費します。祭典委員長以下役取り8名の家庭は当日の夜を徹しての若衆の無作法の祝い込みを受けなければ成らず、その接待の親族もなかなかの大役です。とくに目を引くのは当日の出立時の地渡りで、総勢200人余の渡御です。10色から成る色分けの鉢巻きにより、その人の役柄が地元の人なら一目でわかります。
神輿を担ぐ位置のグループ別に、6メートル余のノボリも120本余が若衆の手によって地渡りに参加します。目が何個あっても足りない祭り風景です。

■環境(道路・河川)
区内を2分する形で県道が南北に走ります。県道に沿う様に浜川があり、川面にはひしめき合うように田舟が繋がれていました。しかしその面影はいまは見られません。昭和39年を皮切りに浜川、仲小路堀と次々に埋立てられ、自然の流れの川面はすべてその姿を消してしまいました。乗用車が走る字内の道路の約70%以上が埋立河川です。

■神社・仏閣
神社は浜之神社(祭神は大国主命)、氏子総代にはその年の区長が兼務で就任します。宮世話係は4名で毎年、区の選挙会で2名を選出して前々年の2名が免役となります。
寺は西照寺(浄土真宗西本願寺派・元天台宗蓮台坊)で区民の約60%が門信徒、本照寺(浄土真宗西本願寺派・元天台宗護念坊)も約20%が門信徒です。大字川南に在する浄土寺は、区民の20%が檀家です。

【田舟での秋の穫入れ(昭和39年)】
【春の当番祭礼(昭和63年)】

●福堂 FUKUDO

●福堂 FUKUDO(PDF 221KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 185戸
■人口 793人

■栗見十郷
村は荘園制から守護大名の領地へと移り、六角氏、京極氏、浅井氏、織田氏と近江を舞台に戦国の動乱が到来しました。
当時、栗見庄は、現在の阿弥陀堂、新宮東、新宮西、福堂、乙女浜、川南、小川の半分、本庄、田附、新海の10カ村からなり、栗見十郷と呼ばれていました。いまは愛知川をはさんで彦根市と能登川町に分かれていますが、その頃は愛知川の本流は彦富から甲崎にかけて北部を流れており、いまの愛知川下流は支流であり川幅も狭かったと言われます。天文13年(1544)7月と永禄6年(1563)の洪水により愛知川の主流が変わり、栗見庄は2つに分断されてしまいました。それ以後愛知川をはさんで北側を「栗見北庄」、南側を「栗見南庄」と呼ぶようになったと言います。

■地名「福堂」の由来
正覚寺本堂正面の額に「福巍堂」と書いてあります。もとは「ふくぎ堂」という天台宗のお堂でした。額の中にある福巍堂の「巍」の字をはぶいて福堂の地名になったのです。天台宗より真宗に変わったのが文明9年(1477)のことです。

■福堂の火の元番
安永9年(1780)、多くの村人が川原までお祭りに出かけ、ほとんどの家が留守になったとき、大火事があり、105軒と2カ寺を焼失したとあります。以来、祭りの当日は村に火の元番をおくことになり、いまでも昔ながらの服装で守っています。

■巡礼塚
宝暦5年(1755)に琵琶湖で遭難した西国巡礼者72人を埋葬した墓地(巡礼塚)に昭和59年(1984)、歌人井伊文子さんの歌碑が建てられました。遭難者の子孫の浄財により、完成しました。
歌碑には、
「望郷の おもひ鎮めて とことはに ふく堂の地に やすらひたまへよ」
と刻まれています。

【地名の由来となった「額」】
【火の元番】

●栗見新田 KURIMISHINDEN

●栗見新田 KURIMISHINDEN(PDF 221KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 114戸
■人口 495人

私たちの字、栗見新田は能登川町の最北西部に位置し、琵琶湖と愛知川に接する自然に恵まれた中の平地農村集落です。湖周道路も開通し、大同川の水車橋から湖面を眺めると、夕日に映える風光明媚な琵琶湖の景色は格別なものがあり、休日には観光やレジャーを楽しむ人たちでにぎわっています。
また、一段と広くなった大同川には、新しくホテルのような揚水機場と水門橋ができ、水門によって貯えられた内湖の水により、大地に潤いを与え豊かな実りを私たち村民に施してくれています。
南側には湖を埋め立ててできた大きな運動公園があります。年1回夏にグランドゴルフ、秋には11組がお互いに競い合う村民運動会がこの運動公園で行われています。また、その隣にはさわやか広場があります。そこには各組が担当する花壇があり、四季折々の花が咲き、人々の目を楽しませ心を和ませてくれます。
運動公園からさらに東に進むと栗見新田開村以来の社、日枝神社があります。寛文12年(1672)、彦根藩主直澄時代に栗見荘十郷の18人の人々により草刈場が開墾されてできたのが、栗見新田の草創であると開村記録に記されています。また、日枝神社の由来も産土神鎮守日枝神社事として記録控があります。日枝神社祭事には春秋の大祭があり、古式にのっとって豊作を祈願しての、供および松明の奉納があります。子ども・若衆により燃え盛る松明を引き回し、最後に奉納された松明の炎が社の夜空を明々と照り焦がすさまは、若さと明日への活力を私たちに与えてくれます。
古人たちが今日まで言い伝え残してくれた遺産と、いずれは過去になる現代の文化を大切に守っていきたいと思います。

【大同川水門橋】
【宵宮松明焼き】

●栗見出在家 KURIMIDEZAIKE

●栗見出在家 KURIMIDEZAIKE(PDF 221KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 104戸
■人口 445人

■栗見出在家の始まり
彦根藩・代官西村助之丞は、自らの新村開発計画を藩主井伊直中に説き、新たに開発奉行の任を受け、文化3年(1806)4月17日、愛知川の三角州地帯の開発に着手しました。
もともと栗見郷の所有地とみなされていたこの地は、愛知川から流れ出す砂礫が、その河口から琵琶湖沿いに伊庭の内湖にかけて堆積し、その上に葭が生い茂り広大な葭原を形成していました。
冒険思想に富んだ漁夫、犬上郡磯田村大字須越の権左衛門はすでにこの湿地の一部を開墾し、それ相応の収穫のあげられることを実証していましたが、彦根藩は、これを藩領であるとして取り上げ、開発奉行西村助之丞のもと、附近の村々の人足に栗見新田の地続きの湿地から開墾させました。
栗見出在家の歴史の始まりは、この開墾地に、栗見六郷からなる選抜42戸の入植をしたことです。開発地、田畑21町歩(約21ヘクタール)余りの中心部に入植者の居住地を設け、表の街路は当時類のない5間(約9.1メートル)幅の道路を配し、大川小川の堀を縦横に貫通させ水上交通と水利の便を同時に図り、江州唯一の模範的新開地を形成しました。
入植者は、開拓者精神を持ち、今日まで美風良習を継承して来ました。
今日に至っては、表面的な利便性が優先され、栗見出在家らしさを残す堀が埋め立てられたり、開村当時が偲ばれる数多くのものも姿を消されてしまっています。
西村奉行は、開発当初、烏合の衆たる民心を一致せしめるために、この村の鎮守として、祭神天照大神とともに、海川の守護神住吉明神と、延命の神多賀明神を合祀した神明神社を、文化5年9月16日創立しました。
水難等、水と深い縁のある栗見出在家にとって延命息災を祈願することは、村人の切望するところでもありました。
文政2年(1819)4月西村奉行の死後、業績をたたえ英霊を祀るべく、神明神社のお旅所に、村人たちは西村神社を建立し、その碑は湖浜より村全体をいまも見守り続けています。
開村当時の村人の粋を偲ばれる手がかりの一つに、形は変わりながらもいまに伝わる春と秋の大祭があります。葭松明を燃し立て(一面では魚族を集め、一面稲田の害虫の駆除を意味する)西村奉行の開発を記念し、神明神社の御加護に感謝する神事が、毎年4月と9月に行われています。
もうすぐ栗見出在家は満200歳を迎えようとしています。村人の多様な価値観の中にあっても、ふるさとを意識できるお祭りなどは、栗見出在家が続く限り、伝統的に受け継がれていって欲しいものです。

【神社前の長松明】
【神社境内の神事】

●中央 CHUO

●中央 CHUO(PDF 221KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 13戸
■人口 51人

私たちの字「中央」は13世帯で町内の行政区でもたいへん小さな集落です。かつては小中の湖と呼ばれた内湖が終戦間もなく干拓されてできた集落であり、きぬがさ三集落(城東・中洲・中央)の一つです。湖であった頃、中央集落付近は、“胴立ち”と呼ばれるところがありここに泳ぎたどって立つと、内湖の水面がちょうど体の腰のあたり(胴部分)の深さの浅瀬であったと聞いています。
昨年(1996)はきぬがさ三集落が誕生して50周年の記念すべき年でした。当字は、残念ながら記念行事を計画しませんでしたが、城東と中洲区では、区民あげての盛大な記念行事が行われました。記念行事に招待をいただき、入植当時に大変なご苦労をされたことを知って胸の詰まる思いがしました。
もう、おわかりいただいたでしょうか? 中央集落は、東に繖山・南に安土山・北に須田川があり、集落の周りは田んぼばかりのいわゆる“田園地帯”です。
さて、字内の活動ですが、なにせ13世帯ということで毎年、世帯のほとんどのものが区長をはじめ各役員にあたります。字単独の活動としては、河川清掃・草の根広場の除草・敬老の日の慰労会・地蔵盆ぐらいです。町民運動会や綱引き大会などの大きな行事は、城東区の皆さんにまた地区行政行事では、中洲区の皆様にも大変お世話になっています。
したがって、何をするにも大変です。やはり、大きな行事は、城東や中洲区の皆さんにお世話にならなくてはなりません。近い将来においても中央の世帯・人口の増加は見込めそうにもありませんので、これからもよりいっそうの集落全員の結束を強化し、「中央はすばらしいところだ!!」とみなさんから言われるように頑張っていきます。
これからもどうかよろしくお願いいたします。ご声援ください。

【春から秋にかけて須田川はバサー(バス釣り人)でいっぱい】
【須田川と堤防の清掃作業(夏)】

●城東 JOTO

●城東 JOTO(PDF 229KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 32戸
■人口 160人

■私たちのきぬがさ城東区!
きぬがさ城東区は、琵琶湖小中の湖が干拓され入植以来50年の年月が経過し、記念すべき節目の年を昨年(平成8年〈1996〉)迎えました。
入植以来、湿田での重労働、排水工事、客土、台風による風水害、過労による病気等々苦労の連続であったことを聞かされています。しかしながら、これらの苦労にも負けることなく、全員が力を結集し、今日の立派な誇り得る城東区をつくりあげることができたのです。
私たちは、50年の歴史をしっかりと振り返るべく、この度50周年記念事業を実施し、区民が一堂に会し、老いも若きも一致団結し、屋台や舞台を造り懐かしい昔話、苦労や楽しかった思い出話に花を咲かせ、1日を満喫したのでした。
以後、よりいっそうの連帯を深めつつ、きぬがさ城東区発展のため、さらに努力をしていく決意です。
町には程遠く、店一件もない山沿いの在所ですが、静かで人情深いすばらしい我が城東区。そんな素朴な城東区が好きです!

【安土城に向かって延びる「からめ手道」】
【城東集落の遠景】

●中洲 NAKASU

●中洲 NAKASU(PDF 229KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 38戸
■人口 156人

■中洲のルーツ
昔、地理の時間に習った琵琶湖の形はいまのようにすんなりしてなく、東側に大きなこぶのように入江があったことを思い出します。戦争中、食糧増産のためその入江の奥の伊庭内湖、弁天内湖が干拓されました。その一画に弥生時代、人が住んでいたといわれる中洲があり、葭が一面に茂っていました。昭和21(1946)年、その葭原の中に小屋を建て人が住み始めました。それが中洲のルーツなのです。
泥沼と闘いながら田を作り、葭原を切り拓いての村づくり、それはそれは大変な苦労の連続でした。そして50年の歳月が流れました。

■開村50周年記念式典
平成8年(1996)10月27日、中洲は開村50周年記念式典を挙行しました。早くから委員会を開いて準備を進めてきましたが、はかどりませんでした。記念日が近づいてくるにしたがって「やろう」「成功させよう」との機運が高まり、子どもから年寄りまで一丸となって取り組みました。藁を編んだ門ができました。丸太を組み足場板を並べた舞台ができました。工事用の足場の櫓ができました。当日は素晴らしい秋晴れのもと、沢山のお客さんに来ていただきました。舞台では女性の大正琴の演奏、子どもを交えた素人劇団が開村以来の出来事を演じたのが圧巻でした。料理はすべて女性の手作りでした。このすべてが手作りの記念式典は大盛況裡に終わりました。皆さんに嬉んでいただきましたが、一番の収穫は、団結して事に当たれば必ず成功するという教訓を得たことでした。この教訓は今後の中洲の村づくりに活かされ、開村100周年に向かって、皆様のご支援に支えられつつ、住みよく明るい村づくりに努力を重ねていきたいと思っています。

【開村50周年記念式典(平成8年10月27日)】

●大中 DAINAKA

●大中 DAINAKA(PDF 229KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 72戸
■人口 384人

大中は、昭和41年(1966)に国営干拓事業により、新しい農村地として生まれました。
大型機械と近代的な施設を中心とした専業農家として発展してきました。昭和45年に減反政策が開始され、水稲を基幹品目とし、野菜・畜産・花卉を導入した複合経営がはじまりました。

■花卉
ストレリチアは関西一の産地で年間80万本を出荷しています。他にスターチス、ひまわりと品種拡大をめざしています。

■野菜
キャベツを中心とする秋冬野菜の露地栽培、キュウリ・トマトなどの施設栽培があり、キャベツは国の指定野菜産地の指定を受けています。

■畜産
大中牛の本場で、大中牛は安全でおいしい肉として名声を高めています。

■町の事業
とくに、ふれあい綱引大会、ドラゴンカヌー大会に優勝しています。ドラゴンカヌー大会はただいま5連勝中!

■大中の事業
大中の事業としては、春・秋祭り、区民スポーツ大会、地蔵盆、営農活動、農村下水道(完了)、環境整備への取組みなどがあります。
大中は、専業農家がほとんどであるため、集落営農としての活動が活発になされています。農業も厳しい状況ですが、経営の改善・合理化・コストダウン・栽培技術の向上等を進めながら、意欲ある経営体、個々の特色を活かせる農業をめざしがんばっています。能登川町のみなさん、未来の農業に応援をよろしくお願いします。

【経営内容(単位:戸)】

●栄町 SAKAEMACHI

●栄町 SAKAEMACHI(PDF 256KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 287戸
■人口 969人

■“寿!栄町 さかえて ことし30年”
東西にこんもりとした稜線を描く猪子山、時に北向観音の祠がチラッと見えたり、読経の声が流れてくる朝もあります。このような光景が眺められる佐野の田園地帯に栄町が誕生したのは30年前となりました。
あちらの田んぼの角に1戸、こちらの田んぼの中に1戸と宅地造成や住宅建設が始まったのは昭和40年(1965)頃からで、昭和42年には約30世帯となりました。この新天地を憧れ生活の根拠地と定め、健全な家庭づくりをなし一致団結しようとその名も「栄町」と称し、以来急速に増加、まもなく300戸になり、住みよい楽天地となっています。
生活の立地条件もよく商店街や各金融機関、病院、小・中学校にも近く、能登川駅へ行くにも交通信号や踏切がなく、通勤・通学にはとても便利で、町内の新興住宅開発のさきがけでした。
当時は現在のような自家用車が1戸に1~3台保有することなどは想定されなっかたので、今日では道路幅が狭く交差点には隅切りもなく、今後のゆとり・安全・快適な町づくりの課題であると思います。
朗報としては平成10年(1998)には、町が建設される「法堂寺遺跡公園」が完成し、多目的広場として利用できることです。現在、公園も広場も空き地もないところへ広大な公園が設置されると、憩いや散歩など人々の交流の場となるでしょう。
出身地は町内が主ですが、他府県からの転入もあり、国自慢や方言を聞けるのも楽しみのひとつです。
新しく開けた町ですので、古くからの伝統、習慣、行事、儀式はありませんが、現在約1000人近くの人口となり、栄町も高齢化してきました。
しかし、人生の苦難、荒波を乗り切って、それぞれの道に精通した方々が数多く健在です。区民の英知を結集し、やがてくる21世紀の時代にマッチした、文化の創造を望むところです。

【区民カラオケ大会(平成8年度)】
【開発当時の栄町2丁目付近】
【区民文化祭作品(平成8年度)】

●泉台 IZUMIDAI

●泉台 IZUMIDAI(PDF 256KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 156戸
■人口 517人

私は、この泉台に住んで7年目にさしかかったところです。最初から住んでおられる方々に聞くと、泉台が生まれてから、かれこれ20有余年たつそうです。
昔からある行政区と違って、歴史の浅い泉台は、皆さんに紹介する名所・旧跡もありませんが、この間に、いろいろな行事もできました。
写真にあるように夏の納涼祭・ソフトバレーボール・グランドゴルフ大会などです。春と秋に一度ずつ組対抗で楽しんでいます。
また消火栓の使い方など、火事がおきたときに初期でくいとめられるよう、消防訓練も年に一度は行っています。
いまこの泉台で問題になっているのは、違法駐車です。道の幅が狭いところに車を停めると、本当にいざ何かあったときや子どもたちも危険です。
一家に1台という時代は過ぎて一人に1台というこの頃ですが、何とかしなければならない問題です。
まだ、これからの行政区ですが、みんなの力を合わせてよりよい区にしたいと思います。泉台の中を流れる瓜生川には蛍もいます。また一度、見に来てください。

【遊びが本気になる楽しい大会です】
夏の納涼祭 O-157で飲食はなくなりましたが、子どもたちは宝さがしで盛り上がりました。

●高岸台 TAKAGISHIDAI

●高岸台 TAKAGISHIDAI(PDF 256KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 49戸
■人口 166人

高岸台は、20数年前に新興住宅地として造成された地域でまだ歴史が浅く、しかも50所帯そこそこの小さな行政区です。
20数年前当時はまだ周囲には田園地帯が広がっていましたが、最近は周辺にもいろいろと建物が建ち並び、町づくりが急テンポで進んできました。
当時は新興住宅地ということもあって、若い人がほとんどで、いろんな機会に地域の将来のことを語り合ってきました。ただ当時は場所がなく、自治会の大掃除の後などにムシロ等をひいて、酒をくみ交わしながら語り合ったことが懐かしく思い出されます。
最近は草の根ハウスという立派な集会所が建って、いろんな面で活用できるようになりました。また、下水道工事につきましても能登川町では最初に手掛けていただき、環境面においてもかなり充実してきました。
こうした恵まれた環境のもとで毎年いろんな行事が行われますが、中でも一番のイベントは夏の納涼祭で、カラオケの舞台は手作りで行い、夏の日が落ちる頃には、それぞれの「のど」を競い合い、楽しい一時を過ごします。
また、スポーツにおいては以前野球やバレーが盛んでしたが、最近は体の方が動かなくなりつつあり、グランドゴルフが盛んに行われています。
今後は、お互いに老後の福祉面を重視した環境づくりをめざして、頑張っていきたいと思っています。

【草の根ハウス落成式】
【高岸台運動会】
【夏の納涼祭】

●志賀田 SHIGATA

●志賀田 SHIGATA(PDF 256KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 65戸
■人口 214人

志賀田自治会は、発足時に行政区の名前をつけました。これには、さまざまな案が出されましたが、最終的に当時の地名でもあった「柿の木立」か「志賀田」のどちらにするか議論した結果、「志賀田」とつけました。
自治会が発足して20年が経ちました。現在、65世帯の小さな自治会ですが、新興団地としてはとてもまとまっています。子供会、老人会(お楽しみ会)が中心となって、みんなで参加を呼びかけて盛り上げています。また、月1回「志賀田ニュース」を発行して、町行政のこと、役員会で決定したこと、自治会行事などを載せ、各組長さんに配布してもらい、住民の連絡が図れるよう努力してきました。毎年役員が交代で新聞作りをしているこの歴史も20年が経過しました。その甲斐あって、親睦も深まり、いまでは老人の方にも、とても喜んでいただいております。
そして、平成8年(1996)度には「志賀田音頭」もでき上がり、夏祭りに子供、老人、自治会が参加し、輪になってみんなで踊ることができました。
これからも、能登川町の合言葉である「出あい、ふれあい、語りあい」を基本に自治会活動を行っていき、とにかく「志賀田に住んでよかった」と言える自治会にしていきたいと思います。

志賀田「秋のフェスティバル」 子供会・老人会・自治会による年に一度の大イベント。クイズやゲーム、抽選会、志賀田音頭などで盛り上がりました。
組対抗のパターゴルフ大会 秋空のもと、ふれあい運動公園にて和気あいあいとゲームをして楽しみました。

●ドリームハイツ DREAM HIGHTS

●ドリームハイツ DREAM HIGHTS(PDF 256KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 210戸
■人口 705人

私たちの住む町ドリームハイツは、昭和53年(1978)3月に自治会が発足して今年(1997)で20年目をむかえました。自治会の歴史もまだまだ浅いドリームハイツではありますが、この地を生涯のまたは生活の地として居住している210世帯の家族がおります。
平成2年(1990)9月の台風19号による愛知川の洪水での浸水を契機にして自警団組織の確立、ドリームハイツ防災方針、愛知川対策委員会の発足があります。
また自治会と自警団が中心となって、独居老人や老人世帯への訪問活動や災害時の避難方法も確立しております。
自治会では各種のサークル活動もさかんになってきております。ソフトボール同好会、バレーボール同好会、遊遊クラブ、カラオケ同好会、緑樹会等があり、各々楽しい活動をしております。
他の自治会のような伝統のある行事はありませんが、年に一度の納涼祭は自治会の全組織(子供会、中学生自治会、緑樹会、各サークル)をあげての納涼祭です。
模擬店も多く出店して楽しい夏の1日を過ごします。
“環境のよい町づくり”
“安心できる町づくり”
“楽しい町づくり”
“心豊かな町づくり”
ドリームハイツ自治会のめざすところです。

【自警団訓練風景】
【バレーボール同好会】

●尾すべ台 OSUBEDAI

●尾すべ台 OSUBEDAI(PDF 200KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 56戸
■人口 211人

私たちの町尾すべ台自治区は、昭和54年(1979)3月に発足して、およそ20年の歳月をへようとしています。ここで生まれ育った子どもたちも成人式を迎える頃になりました。誕生してから一つの年輪を刻もうとしているのが現在の尾すべ台です。
住民相互の親睦と明るい町づくりをはかり、生活環境の向上に努めることを目的にして自治区が発足した後、昭和57年3月10日に広報誌『ふれあい尾すべ台』創刊号が発行されました。それ以来今日に至るまで脈々と、この広報誌は地域住民のふれあいの原動力となり、町づくりの歴史を物語ってきました。集会所の「草の根文庫」には、広報誌を綴った閲覧版があり、その厚みは2センチにもなりました。『ふれあい尾すべ台』が語る歩みには、いろいろな行事が紹介されています。
発足当時は30~40代前後の年齢層が多かったので、体育の推進にも力が入っていたようです。バレーボールやソフトボールなど、白熱した試合の模様や輝かしい成績が紹介してあり、積極的な活動の様子がうかがえます。子供会ではフットベースボールが盛んでした。また、8月23日頃に実施されていた「地蔵盆」が「夏祭り」に名称変更され、時期も変わったことが記されています。いまもこの夏祭りには、子供会のかわいい子供みこしが尾すべ台を練り歩き、祭りの雰囲気を盛り上げています。
住民の憩いの場といえば、五位田川に隣接する小さな児童公園です。安全に楽しめるよう、清掃や施設面の改善に努力されてきたことも『ふれあい尾すべ台』に記載されています。
もう一つは集会所です。自治区が発足して6年目にして、ようやく念願の「尾すべ台集会所」が完成したのです。ここまでたどり着くのに、住民の努力はもとより、尾すべ台を温かく見守ってくださる地域のたくさんの方々のご協力、ご尽力の様子が伝わってきます。いまでは、集会所を中心に、青少年の育成と明るくふれあいの輪が広がる町づくりをめざして躍進し続けています。

【今年もがんばるぞ! 尾すべ台チーム】
【楽しみだな、ホクホクおいしいサツマイモ】

[注]尾すべ台の「すべ」の字は正確には「草かんむりに毛」と書きますがJIS漢字コード中にないためにひらがな表記しています。

●大徳寺 DAITOKUJI

●大徳寺 DAITOKUJI(PDF 200KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 73戸
■人口 254人

私たちの行政区は、まだ9年目で、昔のことがわかりません。毎年、行われている区内の行事を報告します。
●春、夏には、区内の一斉清掃を行っています。
●5月には、区民(一組、二組、三組)対抗のソフトボール大会。
●8月の地蔵盆には、子供会の皆さんが地蔵さんの前に集まります。午前中は各自が絵を書いてテントの回りに張りつけ、お参りに来る人に見てもらいます。昼食は、お母さんたちが作ってくれたカレーライスを食べて、午後は、いろいろなゲームをして楽しく遊びます。
夜6時より和尚さんがお参りに来られるので、子どもたちもお参りして、8時より幼児から小学生までが隣村(安楽寺、能登川)の各地蔵さん6カ所に、お参りに行きます。また、隣村からも子どもたちが来て、お供え物のお菓子をあげたりもらったりして、子どもたちの親睦を深めています。
このお地蔵さん(13体)は、河川改修の際、小川から上がられたのを、能登川の飛永シズさんが、当時、畑でお守りをしていました。その後、宅地に造成され私たちの行政区ができ、現在、区民の皆さんでお守りをしています。
●9月には、“区民フェスティバル”として公園広場で、バーベキュー大会をしています。
●12月には、草の根ハウスで子供会がクリスマスパーティーを行い、夜は区民の皆さんで忘年会を行っています。
以上、どの行事も親睦を深めるための行事です。

【8月の地蔵盆】
真中に建っているのが地蔵堂です
子どもたちが絵を書いているところです
お参りしているところです

●旭ヶ丘 ASAHIGAOKA

●旭ヶ丘 ASAHIGAOKA(PDF 200KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 93戸
■人口 331人

■旭ヶ丘は若い街です
旭ヶ丘は戸数93戸、当初より住宅地として開発されました。昭和58年(1983)分譲開始より14年目となります。みんなスポーツ好きの健康家族です。

■旭ヶ丘は遺跡の上にある街です
旭ヶ丘が位置する場所は、古墳時代の集落跡である斗西遺跡の一部に当たります。開発に先だつ発掘・調査にともない集落をとり囲む川の跡とともに多数の住居跡や土器・木器が発見されました。また魚をとる梁遺構や水利調節用の堰跡なども発見されています。またここでは水辺のまつりが行われていたらしく、鏡のペンダントや儀杖の形をした木器など特殊な遺物が出土しています。
それらの遺物を見て驚くことは、現在のものにも劣らぬ手技のたしかさと知恵のひらめきです。
私たちはもっと自分たちの住む土地の歴史を知る必要があります。古代の人々がどのような国づくりを行おうとしたのか。朝な、夕な、どのような生活をしていたのだろうか。そんな古代に寄せる想いが、私たちの町づくりに土地の息吹となって吹きこまれることを信じます。
今年(平成9年)の秋に完成する総合文化情報センターの開館が待ちどうしいかぎりです。

■草の根ハウスはわれわれの町づくりの原点です
今年で草の根ハウス建設5周年を迎えました。平成4年(1992)、多くの先達の骨折りと住民の熱い意識のたかまりの結果、旭ヶ丘の草の根ハウスが建てられました。これはわれわれの町づくりの原点と言えるものです。現在、自治会・子供会の会合や行事に利用され、旭ヶ丘のコミュニティセンターの役割を担っています。念願の老人会の結成も間近いようです。

【草の根ハウス前にて地蔵盆】
【ドラゴンカヌーの戦いが終わって】
【斗西(とのにし)遺跡の現地説明会】

●緑が丘 MIDORIGAOKA

●緑が丘 MIDORIGAOKA(PDF 186KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 115戸
■人口 361人

私たちの緑が丘は、行政区として10年足らずの新しい町です。昔は、田んぼや竹藪ばかりだったところですが、現在は第一幼稚園をはさんで115戸の集落となりました。できた当初は西地区に空地が多くありましたが、だんだんと整備、建築され、ほぼ現在では完成した町となりました。60歳以上の方は20名程で、小学生以下の子どもが60名程度となっています。また、幼稚園や児童館があって、子どもたちの元気な声がよく聞こえる、これからが楽しみな若い行政区です。
また、第一幼稚園前から温水プールに続く道路は、幅も広く歩道も整備され、生活幹線道路としてよく利用されています。近頃は交通量が多く、自動車事故も頻発しており、住民が一丸となって交通事故撲滅のため、朝の立当番、迷惑駐車警告運動や信号機設置嘆願運動などを行い、住みよい行政区をめざしています。
また、当区内の活動として毎年8月に催される「ふれあい夏祭り」は、各種模擬店やゲームコーナー、さらにはカラオケ大会など、住民あげての年1回のお祭りとなっています。東地区のときは草の根ハウス周辺、西地区のときは、広い道路のつきあたりで交互に会場を替えて行われます。とくに子どもたちには楽しみな行事の一つとなり定着しています。
さらに平成8年(1996)度から、「ふれあい福祉の郷づくり事業」を展開し、お年寄りから子どもまでが地域福祉のために活動する場を設けました。今年(1997)はまず「三世代交流グランドゴルフ大会」を開催し、約60名の参加で大いに盛り上がりました。とくにお年寄りが「寿会」を結成して、大会運営をしています。
環境面では、南に猪子山を望む素晴らしいところです。

【緑が丘造成前の発掘調査】

●大地 DAICHI

●大地 DAICHI(PDF 186KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 107戸
■人口 404人

大地は、生まれて3年目を迎える新しい行政区です。
現在で世帯数107を数え、新しい町並みを揃えており、これから発展をしていこうとしています。
なにしろ新しい行政区のため、古くから伝わる伝統や風習、またシンボル等がなく特筆すべき事柄がないのが実態です。
しかしながら、新しい行政区のため、過去にとらわれない自由で柔軟な活動ができるのではないかと考えています。
各種行事を通じて相互の親睦の輪を深めていき、周りの行政区に劣らないように力を合わせている最中です。
●町主催行事……各種スポーツ大会・ドラゴンカヌー大会・町民運動会・町民文化祭等
●子供会……夏祭り・クリスマス等

大地とはこの地に大いなる足をしっかりとつけて根を張り、空へと届くように手を伸ばし、夢に向かって前へ進んでいくという願いが込められてつけられた名であると聞いています。
ここに住む私たちは、この願いを実現していくために、お互いがいま以上に親睦を深めていき、住み良い町を築きあげていきたいと考えています。

【近くの田んぼより大地を望む】
【大地の町並み】

●桜ヶ丘 SAKURAGAOKA

●桜ヶ丘 SAKURAGAOKA(PDF 186KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 125戸
■人口 394人

桜ヶ丘

●新種 SHINTANE

●新種 SHINTANE(PDF 186KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 259戸
■人口 861人

新種

●神郷団地 JINGODANCHI

●神郷団地 JINGODANCHI(PDF 186KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 51戸
■人口 144人

神郷団地

●若葉 WAKABA

●若葉 WAKABA(PDF 186KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 53戸
■人口 162人

若葉

●東佐野 HIGASHISANO

●東佐野 HIGASHISANO(PDF 125KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 85戸
■人口 292人

東佐野

●南佐野 MINAMISANO

●南佐野 MINAMISANO(PDF 125KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 47戸
■人口 164人

南佐野

●パークシティ能登川 PARKCITY NOTOGAWA

●パークシティ能登川 PARKCITY NOTOGAWA(PDF 125KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 78戸
■人口 199人

パークシティ能登川

●奥田社宅 OKUDA SYATAKU

●奥田社宅 OKUDA SYATAKU(PDF 125KB)

平成9年4月30日現在
■世帯数 13戸
■人口 23人

奥田社宅

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