ふるさと百科 能登川てんこもり 【風土と歴史】
風土と歴史 Climate&History
風土と歴史 Climate&History(PDF 17.6KB)
風土が歴史をつくり、歴史が風土をつくり替えていきます。ではこの地の風土はどのようなもので、また歴史はどのように展開していったのでしょうか。
琵琶湖は地球上でも古い湖のひとつで、それに面するこの地方にも悠久の歴史が刻み込まれています。
繖山は、かつては湖中の島であり、愛知川が鈴鹿の山並みから土砂を運んで、河口に平野を広げていきました。能登川の大部分を占める沃野はこうしてでき上がったのです。
その後、この地に人々が住みつき、水と緑に育まれた神奈備型の霊山である繖山を中心として、文化が築かれてきました。
Climate&History
Climate makes history and in return history makes climate.But how are this area's climates formed and how does history come about ?
Lake Biwa,one of the world's oldest lakes,is blessed with nearby history-rich areas.
Mt.Kinugasa was an island in Lake Biwa.The Echi River carried earth from Mt.Suzuka,creating wide plains that today form the town of Notogawa.
After this,people arrived and settled here.Life was based around Mt.Kinugasa with culture and agriculture prospering.
【風にそよぐ麦(大中)】
●能登川地名考
●能登川地名考 The origin of Notogawa’s name(PDF 63.4KB)
どうして「能登川」というのでしょうか? 誰もが疑問に思うことです。
県内でも、愛知川町には愛知川が、安曇川町には安曇川があるのに、能登川町には能登川がない。
どうして?
●アイヌ語起源説
地名起源の勉強をすると、少なからずアイヌ語にその起源を求めていることが多くあります。能登川の場合も能登半島と同じく、アイヌ語の「ノット」(岬という意味)から来ているとよく耳にします。
しかし、地名の起源を探るには、まず日本語でその語源を考えるのが原則のようです。十分に日本語で検討したうえで、どうしても解釈がつかなければ、アイヌ語や朝鮮語で考えてみるのが順番です。ですから、どうもこの説は正しくないかもしれません。
●『能登川町史』によると
やはり、アイヌ語説を否定しています。
まず、当地が沼沿いの地であったことから、このことを示す「ヌト」(沼処)という言葉か、咽喉と同じく狭い通路を示す「ノド」という言葉が地名となり、そこにあった川を「ノトガワ」と呼ぶようになったのではないかと言っています。
「ヌト」あるいは「ノド」が、「ノト」になまったという考えです。
こうしてできたノトガワの地名が、村名となり、町名となりました。
また、漢字の表記は「音」を置き換えただけのことが多く、あまり漢字の意味にとらわれない方がよいそうです。
●能登川という川は
これも『能登川町史』に載っているのですが、伊庭の小字に「能登川橋」というのがあり、この場所が瓜生川に沿っていることもあって、いまの「瓜生川」は、以前のある時期「能登川」と呼んでいたと書かれています。
さらに、長く西小学校や東小学校におられた中川真澄先生が、『朝鮮人道延絵図』に描かれた能登川町内の瓜生川にあたる川の名前が、「能登川」と書かれていることを見つけられました。これによって、瓜生川が能登川であったことがほぼ確実となりました(「能登川地名考」『近江地方史研究第27号』平成4年〈1992〉)。
●能登川と能登半島?
『能登川町史』は郷土研究の大切な参考書です。
【小字「能登川橋」と瓜生川】
◆遺跡は語る
◆遺跡は語る The ruins tell a story(PDF 251KB)
わが町「能登川」には、古く縄文・弥生の時代から人々が生活していました。
現在、町内のいろいろな所で、発掘調査が行われていて、昔の人たちがどんな生活をしていたか、古代のロマンを与えてくれます。
◆縄文時代
縄文時代の遺跡としては、町内伊庭の金刀比羅地先の干拓堤防や付近の土砂の中から、縄文中後期の遺物として石斧・石鏃・土器片などが発見採取されています。
また、町内種地先の正楽寺遺跡では、発掘調査が行われて縄文人の住居の跡や、当時の生活に使われた品々が発見されています。その他、林・石田遺跡、今安楽寺遺跡など多くの遺跡があります。
●正楽寺遺跡
正楽寺遺跡は、愛知川左岸の町内種地先で開発に先立ち発掘調査され、いまから約3500年以上も前の縄文時代後期の集落(村)の跡が発見されました。西日本でこれほど大きくまとまった集落跡が見つかることはなく、貴重な発見と言えます。
この遺跡の発掘で、竪穴式住居跡、掘立柱建物群、祭りの広場など、縄文の人々の生活の跡や、生活に使われた櫛、土で作られたお面(土面)、石器、鏃、石斧など多くの遺品が見つかりました。
●林・石田遺跡
この遺跡は縄文時代後期の住居跡で、直径約4メートルの不正円形の竪穴式住居跡です。中央に火を焚いた炉の跡と周囲に11本の柱を立てた穴、さらに住居の穴から、埋甕が発見されました。この中から火で焼かれた人間の骨の一部が見つかり、これは再葬墓として骨を移し変えたものではないかと思われています。
●今安楽寺遺跡
発掘調査の結果、この遺跡からは埋甕が9つも見つかり、この遺跡の周辺には人々が生活していた住居跡の可能性があると思われています。
【正楽寺遺跡復元想像図】
【正楽寺遺跡発掘】
【出土した土面(左)とレプリカ(右)】
【林・石田遺跡の竪穴式住居跡】
【今安楽寺遺跡の埋甕】
◆弥生時代
紀元前3~2世紀頃から、それまでの縄文文化とは異なった新しい文化が発生しました。これを弥生文化と言って、生活の道具として、それまでの石器とともに金属器を使用するようになりました。また、稲作の技術をもった農耕文化でもありました。能登川町では、大中の湖南遺跡や小川・宮の前遺跡などがあります。
●大中の湖南遺跡
「大中の湖干拓事業」の工事のときに発見された遺跡で、発掘調査の結果、縄文時代から鎌倉時代にかけての複合集落であることが判明しました。とくに、弥生時代の遺構としての水田跡や水路跡、また、遺物としては木や石で作られた農耕具が多く見つかり、このあたりで農業が発達していたことがわかりました(昭和42年〈1967〉に国の史跡に指定)。
●小川・宮の前遺跡
昭和37年に小川で工場拡張工事のときに発見され、調査の結果、弥生時代を中心とする集落遺跡であることがわかりました。
その後、数回の調査が行われ、方形周溝墓や木棺墓、多くの土器などが発見され、この集落遺跡は、弥生時代中期から後期にかけて存在していたことが判明しました。
【出土品(滋賀県立安土城考古博物館蔵)】
【大中の湖南遺跡】
【宮の前遺跡の周辺】
方形周溝墓〈ほうけいしゅうこうぼ〉
方形周溝墓はまわりに溝を掘り、その土を積みあげてつくった墓です。墓はいくつもまとまってきずかれており、ムラの有力な家族をつぎつぎに葬ったものと思われます。『日本の遺跡なんでも事典』(集英社)より
◆古墳時代
古墳時代の終わりの頃の古墳は、繖山周辺に数多くあります。これらの古墳で能登川町に属するものは、約133基ほどを数えることができます。これらの古墳を集合群別に名称をつけていきますと、「佐野山」「善勝寺裏山」「山面」「西山」「北山」「望湖」「安楽寺山」「須田山」となります。
古墳には竪穴式石室と横穴式石室の2種類があります。竪穴式は縦に石組の穴を掘り死者を葬ったもので、新しい死者が生じてもそこへは埋葬できませんでした。
横穴式は、墳丘の横から「羨道」を通って「玄室」という空間に人を埋葬するものです。繖山に築かれた古墳の多くは、この横穴式です。
古墳の中には、死者と一緒に金環や須恵器などが副葬品として納められていて、これらの遺品から古墳時代後期のものと考えられています。
●中沢・斗西遺跡
佐野を中心とした弥生時代後期から古墳時代のはじめに人々が生活していた跡です。
この遺跡は、愛知川の自然堤防(微高地)の上につくられていて、調査の結果、数多くの竪穴式住居や掘立柱建物、方形周溝墓、前方後円墳(100メートル以上)が見つかり、出土した土器は祭りに関係するものが多くあり、滋賀県下でも数少ない大集落遺跡であると言えます。
●巨石崇拝
古代人の信仰には、山や奇岩・怪石に対する崇拝があり、岩石を神聖なものとして神霊が宿るものと考え、とくに形が奇異であるものを不変でつねに成長し続ける生命力をもつものと信じていました。
町内には、岩神・岩船・磐座などがあります。
【猪子山古墳群石室開口部】
【斗西遺跡】
【岩神】
【岩船】
【磐座】
北向観音
古代の磐座の中へ、いつ頃からか石造の観世音菩薩がまつられました。それが近年人々の崇敬を集め、信仰と健康をかねて多くの人々が登っているようです。
◆飛鳥・白鳳時代
◆飛鳥・白鳳時代(PDF 168KB)
仏教が日本に伝わってから、各地の豪族の間にも私寺(氏寺)を建立することが流行しました。湖東地方では渡来した人々の居住によって仏教文化の影響がほかの地方よりも早く定着したものと考えられています。
町内では当時の寺院のものと思われる古瓦などが数多く存在します。
●法堂寺遺跡
能登川駅の東約700メートル、周辺を宅地に取り囲まれた水田の中に、高さ約1.5メートルの巨石(塔の心礎)があります。
この一帯の水田は、「法堂寺」の小字名があり条里地割と異なる方位になっています。ここでは、昔から蓮華文の軒丸瓦や土器片が採取されていて、塔心礎の位置や遺物などから白鳳時代に建立された法隆寺式の伽藍配置をした寺院跡と推定され、昭和47年(1972)に能登川町の史跡に指定されました。
平成8年(1996)からの町遺跡公園整備事業に伴う発掘調査により、寺院域や大官大寺式の伽藍配置であったことが明らかになりました。
●小川廃寺
小川・宮の前遺跡の西に「賀久堂」との小字名があり、ここは、他の田んぼよりいちだんと高くなっていて、土壇の跡と見られます。
また、この付近には、地蔵堂・大入堂などの小字名が残っていて、古くから寺院があったと推定されます。
●躰光寺廃寺
古い書物に「古くこの地に天台の大佛場あり七堂伽藍がありその後荒廃し今田地の字に残れり、なお村号となれり」とあり、現在の地区名はここに由来すると思われます。この地には「寛永寺」「正見寺」「安養寺」などがあったとの記録もあり、地区の南側に安陽堂・地蔵堂と言われる畑地では、ここから須恵器の破片が採取されました。
【法堂寺廃寺 塔心礎と現地説明会。】
【法堂寺廃寺出土の瓦】
【方形瓦】
【複弁蓮華文軒丸瓦】
【細弁蓮華文軒丸瓦】
【均正唐草文軒平瓦】
【線鋸歯文軒平瓦】
【蓮華文軒平瓦】
【鴟尾】
◆中世以降
「遺跡」といっても、何も原始時代や古代に限ったものではありません。当然のことながら、前の時代に引き続き中世以降も人々の生活は続きますし、この時代の遺跡も町内にはたくさんあります。
主に中世以降を研究対象とした「歴史考古学」と言われる分野の発達はめざましく、国内県内は言うに及ばず、能登川町内でも多くの事実が発掘調査によって明らかとなっています。
●上山神社遺跡
この遺跡は総合文化情報センター建設地内で発見されたもので、次に説明する佐野南遺跡と同じように、堀で囲まれた区画が見つかりました。おそらく屋敷跡ではないかと考えられ、およそ800年前の鎌倉時代の頃のものです。とくに、井戸跡から見つかったおまじない用の木札は珍しいものです。
もちろん総合文化情報センターは、遺跡を壊さないように遺構のないところに建てられました。
●佐野南遺跡
佐野の公民館前で調査をしたとき、深さ・幅約1メートルの溝で囲まれた屋敷跡が見つかりました。東の方を見上げると、佐生城跡があり、何かしら戦略的施設のような気がする遺構です。およそ700年前の室町時代のものと考えられています。
●中村堂遺跡
能登川の集落内で、古い商家を壊して新しい住宅が建てられたとき見つかった遺跡です。意図的に埋められた井戸の跡があって、出てきた土器片から江戸時代のものとわかりました。
一方、古い記録から、その頃ここにあった商家がわかるため、誰がこの井戸を埋めたかがわかりました。
【上山神社遺跡出土まじない札】
【上山神社遺跡】
【佐野南遺跡】
【中村堂遺跡】
◆埋蔵文化財センター
◆埋蔵文化財センター(PDF 117KB)
総合文化情報センターと言えば図書館・博物館をさしますが、広い意味ではここに埋蔵文化財センターも含みます。
いままでみてきたような発掘調査の成果は、単に現地の発掘調査からだけでは得られません。室内に調査成果を持ち帰って、土器の土を洗い落とし、図面を整理するなどの作業を通してわかってくるものです。このような作業は、長く南小学校の旧講堂を中心に進められてきました。しかし、これからは図書館・博物館と同時に完成する埋蔵文化財センターで行われることになります。
土器の接合作業は根気のいる仕事です。こんな作業も、新しくてきれいな施設内では、きっとより順調に進むことでしょう。
完成した埋蔵文化財センター延べ床面積約1700平方メートルの規模は町立としては全国最大クラスの施設です。
南小学校旧講堂にあった頃の出土遺物2階部分はすべて収蔵庫となっています。いままでのペースで発掘調査をしても、向こう30年間はいっぱいにならない広さです。
◆歌人がうたい武将が治む The Tanka Poets sing and Samurai govern
◆歌人がうたい武将が治む The Tanka Poets sing and Samurai govern(PDF 428KB)
古代より琵琶湖に面した風光明媚な地域だけに、文化的にも政治的にも脚光を浴びてきました。
和歌・短歌・俳諧などに詠まれた詩歌も数多く、宗祇などの歌人を輩出してきました。
また都に近いので、武将の多くが群雄割拠して相争い、しのぎをけずってきました。
【万葉と荘園の奈良・平安時代】
●社寺・貴族の荘園支配
500年にわたるこの時代は寺院の権力支配が強く、土地や人民は寺院の支配下に置かれたり、貴族階級が台頭してくると、より荘園化が進んでいきました。
この地方の荘園の多くは比叡山延暦寺領であったため、武士勢力の支配を拒んでいました。
垣見庄:小幡、中、簗瀬、和田、河曲(現・五個荘)、佐生、佐野、林、猪子、長勝寺、神郷、種、服部(現・彦根)、今、垣見、躰光寺(佐野庄、花垣庄ともいう)
伊庭庄:伊庭、能登川、安楽寺、北須田、猪子、林、山路、佐野、垣見、躰光寺、小川
栗見庄:栗見北庄-本庄、田付、新海(現・彦根)
:栗見南庄-栗見新田、福堂、乙女浜、新村、阿弥陀堂、小川、宮西
因幡庄:甲崎、田原、出路、稲葉、普光寺、三つ谷(現・彦根)、小川、今、川南
*字名が重複している荘園があるが、分割して所領にしたり、所領替え・年代差などがあったため。
万葉の舟歌
玉藻刈る 処女を過ぎ夏草の野島が崎に盧すわれは(万葉集巻一五)
・処女と乙女を掛けている
・野島が崎は福堂地先の地名
さざなみの波庫山に雲居れば雨ぞ降るちふ帰り来わが背(万葉集巻七)
・波庫山は繖山
・「わが背」は「私の夫」の意
【小川小字図(条里制)】
◆佐々木氏台頭の鎌倉・室町時代
◆佐々木氏台頭の鎌倉・室町時代(PDF 428KB)
●近江守護・佐々木氏
宇多天皇の第八王子敦実親王を祖とする佐々木源氏は、安土の沙々貴神社の神主や佐々木庄の下司職(荘園において実際の荘務を行う荘官)でしたが、鎌倉幕府の成立(1192年)とともに、定綱が近江守護となり、世襲するところとなりました。
承久の乱(1221年)後、佐々木氏所領を兄弟が分割相続し、これが後世の六角氏と京極氏の宿命的対立の原因となったのです。
南北朝時代(1336~92年)になると、京極道誉が勢力を伸ばしてきており、一方この頃、六角氏は観音寺山に城を構え、両家はしのぎを削るようになってきました。
●佐々木氏の武将
佐々木氏は本城のあった観音寺城の周辺に、自分の家臣団を配置しました。
町内に割拠した家臣はそれぞれ村落を支配下におさめ、中央に館(城)を設けて守りを固めました。
●守護代・伊庭氏
伊庭氏は佐々木氏の一族で、伊庭に在住してその姓を名乗り、鎌倉時代には地頭職に補され、佐々木氏が守護となるや守護代として重要な地位に上り、近江の国政を左右しました。また、伊庭内湖をはじめ琵琶湖の湖上権も掌握し水軍をもって、物資の輸送や漁業はもとより軍事上においても絶対的な権力を保持していました。
室町時代になると、佐々木氏の弱体化と下剋上の嵐の中で、伊庭氏は主家をないがしろにするようになり、文亀2年(1502)伊庭貞隆が佐々木家に謀反して敗れ、のちにその子貞説の代に没落し、各地に分散しました。
各武将の城―館
種村氏 佐々木氏の支流、種村に居館。大橋姓はその子孫(後方種村氏)。先方種村氏は伊庭氏からの別家で八仏手城(種村の西側)を築いたが、伊庭氏没落時に各地に分散。
新村氏 佐々木氏一族、志村に居館。信長勢に抗して籠城し670人の犠牲を出し、落城(1571年)。
小川氏 小川に居館。元亀2年(1571)、信長勢に7人の人質を出して降伏、落城。
後藤氏 佐生城、佐々木氏の下屋敷。
※その他、須田氏、猪子氏、国領氏などがいました。
【観音寺城本丸石垣】
【伊庭城址(勤節館)】
◆戦国の世から安土・桃山時代
●戦国時代の能登川は戦乱の渦中
室町幕府の管領職をめぐって細川氏(東)と山名氏(西)の抗争(応仁の乱:1467年)が起こり、佐々木氏は山名方、京極氏は細川方について攻防しました。
都に近かっただけに争乱が絶えることなく続き、伊庭貞隆の反逆(1502年)、伊庭貞説の謀反(1514年)、さらには観音寺城の落城(1568年)など、湖東、とりわけ能登川地方は戦乱の渦中となりました。
●安土城の築城と信長
元亀2年(1571)織田信長が当地に攻め入り、志村城、小川城など多くの城が焼かれました。その後信長が近畿全域をおさえ、天正4年(1576)安土を新しい根拠地として6層7階の豪壮な城郭を築き上げました。
現在、城址の発掘調査が行われていますが、天守閣や武家屋敷へ資材や食料などを運び上げたのは「からめ手道」(能登川側)からでした。
●秀吉と桃山文化
本能寺の変(1582年)で信長が討死すると、天下に誇る金箔で覆われた豪華絢爛の安土城も焼失、落慶後わずか4年でした。その後は豊臣秀吉の時代となり、一時的には平穏な世の中になっていきました。この頃、生花や茶道が盛んになり、世に桃山文化と呼ばれています。しかし、秀吉死後、関ケ原の合戦(1600年)、大坂冬・夏の両陣を経て、徳川幕府の支配となりました。
【安土城復元図(内藤晶氏による)】
【安土山の眺望】
【安土城の「からめ手道」】
◆彦根藩・大和郡山藩等支配の江戸時代
●領主の支配
彦根藩領(井伊氏)
福堂・乙女浜・宮西・新村・阿弥陀堂・川南・小川・今・垣見・躰光寺・山路の計11カ村、約8000石。後には開拓された栗見新田、栗見出在家が加えられました。
大和郡山藩領(本多氏から柳澤氏へ)
種・長勝寺・神郷・佐生・佐野・猪子・林を所領。天和2年(1682)に館林領から大和郡山藩に転封(幕府が命令して大名の所領をかえること)され本多氏領となりましたが、享保9年(1724)、御家断絶により柳澤氏領となりました。
そう見寺領(安土山)
天正20年(1592)、豊臣秀吉によって豊浦庄(南須田を含む)100石が寄進され、以来、徳川秀忠・家光らによっても所領が安堵され、寺領となりました。
三枝氏領
元禄11年(1698)、旗本の三枝氏は甲州より近江に転封され、知行地7000石のうち2000石を伊庭村に領し、ここに代官所を置いて支配していました。
【彦根城】
【安土城内にあったそう見寺の裏門(南須田の現超光寺山門)】
【彦根藩知行主の一覧(能登川町域)】
知行主の分散的知行
知行制の例(木俣土佐:彦根藩筆頭家老)
知行主による村の分割支配(相給)の例(山路村)
●小堀遠州と伊庭御殿
関ケ原の合戦は徳川家康(東軍)の大勝で終止符が打たれ、慶長8年(1603)江戸に幕府が開かれました。その後、将軍が江戸から上洛するとき、護衛上の濠や土塁をめぐらした城郭風の宿館が必要でした。
当地はその頃豊臣方の力が残存していたため、堅固な御茶屋風の宿泊所でなければなりませんでした。そこで、湖北出身の作事奉行小堀遠州に家光上洛の宿として「伊庭御殿」を造営させました。この地を現在は「御殿地」と呼んでいます。
「寛永11年甲戌年伊庭御茶屋御作事之事 小堀遠江守」(中井忠重氏蔵文書)という古文書により将軍家光が泊まったと推定されています。
●農民の暮らし
農民に対する掟[要旨]
・火の要慎大切にすべきこと
・御公儀様の御法度は堅く守ること
・「人呼び」はせいぜい倹約すること
・祭礼の際の馳走も倹約すべきこと
・日番の若衆宿はひかえること
・当番年の宮上りはなるだけ倹約すること
なお、老人がとりしきることが肝要である。
●近江商人の活躍
当町出身の近江商人は、主に麻布・呉服・太物・肥料の行商販売を行いました。
取引先は江戸・京都・大坂をはじめ、北海道・九州など全国に及んでいました。
とくに、当町能登川出身の阿部氏一族の活躍はめざましいものがありました。
また、今出身の中村家(大橋氏)は北前船による通商に従事し、北海道江差町を舞台に活躍し繁栄しました。その縁により能登川町は江差町と姉妹提携をしています。
【伊庭御殿地跡】
【「掟書」文書(乙女浜所蔵)】
【近江商人の行商姿(『近江商人事績写真帖』より転載)】
◆激動の世と発展するわが郷土 Our hometown develops after the Meiji period
◆激動の世と発展するわが郷土 Our hometown develops after the Meiji period(PDF 31KB)
この地の大部分は井伊直弼の知行地であっただけに、明治維新による変革は住民に大きな動揺を与えました。
第2次世界大戦前後の暮らしの変化とともに、京阪神の通勤地としての住宅都市化はめざましく、また人口増加の傾向は著しく、限りなく発展するわが郷土です。
維新と黎明の明治時代
●廃藩置県
幕藩体制が崩壊し、明治維新となると人心にも明るい息吹が感じられるようになってきました。地方政治も廃藩置県制や新町村制がしかれていきました。この地域は大津県から滋賀県と改称されました(明治5年〈1872〉)。
●村役場の設置と戸籍帳
明治5年8月より各村の庄屋を戸長、年寄役(横目)を副戸長と呼び、「宗旨人別帳」に代わって新しい戸籍「壬申戸籍」や「村高明細帳」がつくられました。
明治18年に連合戸長役場制実施、22年に町村制となり、村は大字となり戸長役場は村役場となりました。
【町村制の変遷】
【明治25・26年測図地形図】
◆波瀾万丈の大正・昭和初期
◆波瀾万丈の大正・昭和初期(PDF 298KB)
■自作農は全農家の20~30%で、自小作農および小作農が70~80%を占めています。
■所有規模は1戸当たり5反(反=10a)未満が60%で、1町以上を所有する農家は20%位で、3町以上所有し、ほとんど小作農に頼っていた地主が約60戸ありました。なかには10町以上所有の不在地主もいました。
■小作料は小作田評価により差異はありましたが、反当たり約1.2石(石=180kg)でした。
■豊作年は反当たり約3石、不作年は2石の収穫高で、小作農にとって年貢納入は厳しいものであったと言われています。
●米作実収高と農民生活
■肥料にはニシン、白子、油かす、藻などが用いられました。
■年により豊凶の差がかなり見られ、凶年は明治40年(1907)、大正7年(1918)、10年、12年、昭和10年(1935)、28年でした。
■麦、菜種などの裏作も多くの農家でなされましたが、明治43年の統計によりますと、上記6カ村で1000戸が養蚕業を副業としていました。
【農民の暮らし(昭和13年〈1938〉頃)】
●工業の発達と商店等への奉公
近江麻布主産地として、明治44年(1911)工業試験所が設置されました。大正7年(1918)近江蚊帳(株)が、翌年には日本カタン糸(株)(戦後日清紡と改称)が設立され、各地に中小の織物会社が創業しました。その下請けとして多くの農家では機織りをして稼ぐ家庭もありました。
一方、当地から近江商人(とくに繊維問屋が多い)は、京阪神や東京・九州・北海道までも商域を伸ばしていました。その商家へ男子は丁稚として、女子は女中として奉公する人も数多く見られました。大正13年の調査によりますと、当地域出身の著名な近江商人は82名を数えています。
●不景気と満州事変・日中戦争
大正12年(1923)の関東大震災をきっかけに国内は景気が悪くなり、ついに昭和2年(1927)には金融恐慌となっていきました。当然、当地域においても不景気の波は繊維業界を始め、中小商工業にまで押し寄せ、倒産・失業が相次ぎ、庶民の暮らしにも多大な影響を与えました。
これらの大恐慌を乗り切るために中国侵略がくわだてられ、満州事変・日中戦争へと発展していきました。
【日清紡(昭和30年〈1955〉頃)】
【北海道江差町「中村家」(今出身―旧大橋家)】
【出征兵士の家】
◆激動の第2次世界大戦
◆激動の第2次世界大戦(PDF 184KB)
●太平洋戦争と町民の暮らし
昭和16年(1941)12月8日、太平洋戦争が勃発すると、働き手である若者が次から次へと徴兵され、家に残っているのは子どもと女性・老人だけとなり、「銃後の守り」を固めていました。
また、多くの戦死者が相次ぎ、さらにアメリカ軍の爆撃で恐怖の毎日が続きました。衣・食・住すべてが不足する中で、児童・生徒も食糧増産や義勇軍・工場などへと徴用されていきました。
戦争末期には、日清紡が爆撃を受け(1945年7月30日)、多大の損害をこうむりました。
●能登川町の誕生
昭和15年(1940)、能登川駅前の商工業地区を中心にまず五峰村と八幡村の合併が計画され、その後、栗見村・伊庭村・能登川村を含めた5カ村の合併による町制施行が企てられました。このように昭和17年2月11日、能登川町が成立しました。
しかし、一部旧村の中には分村を主張する人々が分村運動を起こしましたが、分村は時代の流れに逆行するものとして県議会の承認が得られませんでした。
【平和之塔】
【出征兵士】
【戦死者の村葬(栗見出在家)】
【初代町議会議員】
【能登川町内の戦没者】
【平和之塔に納められている英霊簿より】
◆戦後と町制50周年
◆戦後と町制50周年(PDF 149KB)
記念式典
(平成4年2月11日)
町の誕生50年を祝う記念式典が町民体育館で、続いて祝賀会が町民武道館で行われました。記念式典には、関係者約320人が出席し、9部門、153個人・団体等の方に対し感謝状および表彰状が町長から贈られました。また町長と議長の手により、現在の様子を次の世代へと、諸資料がタイムカプセルに納められました。
温水プール開き
(平成3年6月16日)
町民待望の施設、能登川町温水プールが町制50周年記念の建物として完成しました。竣工式は、6月15日に行われ式典後テープカット、シンクロナイズドスイミングが催されました。また16日には元オリンピック代表の高橋繁浩さんを招き、模範泳法や小学生約100人を対象に泳法指導が行われました。オープン以来、毎年6万人をこえる利用者があり、手軽に楽しめるスポーツとして、水泳がいま人気を博しています。
町制施行50周年記念大会
(平成3年10月10日)
スポーツの秋。―恒例となった町民運動会が、50周年記念として行われました。
50周年を祝う横断幕に彩られ大会は、およそ1000人が参加して行った人文字の航空撮影にはじまり、ロープジャンピング50、からおけ大会と記念大会にちなんだ種目が盛りだくさん。46行政区(45チーム)、約7000人の参加により、盛大に開催されました。
◆能登川の生んだ人々 Famous people from Notogawa
◆能登川の生んだ人々 Famous people from Notogawa(PDF 183KB)
わが郷土は、縄文の昔から名もなき人々が営々として作り上げてきたもので、有名人が作ったものではありません。
わが町からも、国のため、社会のため、郷土のために尽くした有名無名の多くの人々がでています。
●宗祇法師 そうぎ・ほうし[1421~1502]
―能登川・伊庭氏の出身と判明
室町時代の連歌師に、宗祇という人がいます。
俳句で有名な松尾芭蕉は「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道する物は一なり」と『笈の小文』に述べているように、宗祇を自分の先を歩いた歌の大先輩として大変に尊敬しています。
連歌は和歌から俳諧へ移る過渡期に生まれた文学で、室町時代に盛んとなりましたが、江戸時代に入ると、残念なことにさびれてしまいました。そして、俳諧・雑俳(川柳・冠句など)にとって代わられ、宗祇も一般の人々から忘れ去られてしまいました。
宗祇の出生地については、近江説・紀伊説の二つがあり、江戸時代からはなぜか紀伊説が有力となっていました。しかし最近、広島大学名誉教授・文学博士の金子金治郎先生が、「宗ハ江東ノ地ニ生マレ」と書かれている『種玉宗庵主肖像賛』や手紙などをもとにして、その生まれを近江守護・佐々木六角氏の重臣伊庭氏であると考究され、学会でも認められることとなりました。
郷土の生んだ偉大な文学者・宗祇法師について、いっそうの認識を深めるとともに、顕彰の運動を進めていきたいものです。
【宗祇】
【伊庭城址】
【箱根湯本・早雲寺】
宗祇法師の近江における句
▼近江国にて
かげすずし 南のみ山 北の海 しげりあふ 末や千枝の 村がしは
▼近江にくだりしとき湖辺にて
月ぞ舟 夕わたりせよ 郭公
▼近江国慈恩寺にて 五月雨の比 墜栗のこころを
五月雨は 花のおちぐり かぜもなし
●大方源用禅師 たいほうげんよう・ぜんじ [1314~90]
―伊庭氏の菩提寺・大徳寺を開創
大方源用は近江守護佐々木六角氏の分流・伊庭氏の生まれであり、出家して京都の臨済宗東福寺の雙峰宗源という方について修学し、禅僧となりました。
永徳3年(1383)には京都五山のひとつ、東福寺の五十世の寺主となり、明徳元年(1390)に亡くなりました。墓は東福寺塔頭・大仙院(廃寺)と能登川の大徳寺の2カ所にあります。
大徳寺は応安2年(1369)、大方源用が56歳のときに、故郷に創建したもので、妙心寺(廃寺となり地名のみ残る)とともに伊庭氏の菩提寺でしたが、永祿年中(1558~69)、兵火により焼失したと言われています。のち密雲が復興して、妙心寺派に転じました。
また、この大徳寺は「東嶺禅師授業寺」としても知られています。東嶺は近代臨済禅の巨匠・白隠禅師の高弟として、また父母孝養の禅僧として知られています。なお、東嶺出身の中村家はもと能登川町伊庭の出です。
●川原崎助右衛門 かわらさき・すけうえもん [?~1570]
―身を投じて、村を救う
都へ上り天下統一をしようとした織田信長は、まず上洛の前に立ちふさがる佐々木六角氏の観音寺城を攻め落とし、これに味方する近郷の村々から人質を求めました。垣見・小川・新村などの各城は籠城して、信長に反抗ののろしを上げましたが、伊庭は人質を送って、反抗する気持ちのないことを誓うとともに、平和と用水の確保を求めました。
元亀元年(1570)11月、助右衛門ほか2名の人質は郷里伊庭を出発し、岐阜金華山城に捕らわれの身となりました。しかし、捕らわれている牢の中から平和と用水の確保を求め、訴え続け、ついに割腹しましたので、信長もその郷土を思う心に打たれて、その願いを聞き届けたということです。この助右衛門の行いにより、伊庭庄は戦乱の災禍をまぬがれ、伊庭川は400年の間、水量豊かに流れてきて、人々の飲料水となり、田用水となって、大地をうるおし続けてきました。
河川・湖沼を汚さず、豊かな環境を子孫に残そうと声高く叫ばれる今日、水のために命を投げ捨てた故人の功績を後世に伝えるため、昭和46年(1971)11月、子孫が集まって顕彰碑が建立されました。
【大方源用】
【大方源用の墓】
【東嶺禅師授業寺】
【古文書】
【顕彰碑と追弔法要】
●貞安上人 ていあん・しょうにん [1539~1615]―安土宗論の立役者
●貞安上人 ていあん・しょうにん [1539~1615]―安土宗論の立役者(PDF 233KB)
伊庭妙金剛寺の本堂前の北側に、「貞安上人墓」が建っています。貞安は相模の生まれで、能登の国の西光寺に住んでいましたが、戦乱を避け、近江にやってきて、繖山の麓の金剛寺に住んでいました。
天正7年(1579)5月27日、安土で浄土宗の僧に法華宗徒が宗論を仕掛けました。
これを知った織田信長は自分の面前で宗論をして優劣をつけよと命じました。このとき、浄土宗側の西念を助け、法華宗の日晄・不伝と浄厳院で対決したのが貞安です。
宗論は浄土宗の勝ちとなったため、信長はこれをほめ、軍団扇と「妙」の字を与えたので、これ以後「妙金剛寺」と称するようになったと伝えられています。
さらに、このことにより貞安は安土山の下に寺地をもらい、大雲院西光寺を創建しました(のちに近江八幡に移転)。このため、貞安の名声は大いにあがり、のち都に上って、大雲院の開山となりました。
●徳永寿昌法印 とくながじゅしょう・ほういん [1549~1612]
―民政に尽くした郷土出身の戦国武将
町内能登川は、他の村とはやや異なる町並みです。それは朝鮮人街道に面して、間口5間(約9メートル)、奥行き10間(約18メートル)の屋敷割が整然となされており、さらに道路から7~8メートル奥に、道路に並行して幅30~50センチ位の水路を掘り、伊庭川から分水した水を流し、生活用水としているからです。
このような現代にも通じる計画的な町並作りを行ったのが、徳永寿昌という領主で、いまも法印の業績をたたえる法要が行われています。
寿昌は父の後を継いで、伊庭庄の領主となり、最初は柴田勝家の甥・勝豊につき、のち秀吉に仕え、美濃高須で3万石を領しました。
文祿・慶長の朝鮮出兵の際には、兵をまとめて帰国させました。
その後、家康に重く用いられ、関ケ原の合戦には東軍に加わり、その功によって、美濃高須・5万5000石の大名となりました。
また、神仏を敬う心が篤く、晩年には仏道に入り、法印となりました。
新造・修復した社寺も多く、地元の大浜神社・望湖神社や、岐阜赤坂の明星輪寺(虚空蔵)・岐阜高須の天神社・養老寺などがあります。
【貞安上人(近江八幡市・西光寺)】
【貞安の墓(伊庭・妙金剛寺)】
【徳永寿昌の墓(繖山中)】
【能登川の水路】
●今堀大典禅師 いまほりだいてん・ぜんし [1719~1801]
―日韓の国交に尽くした五山文学の禅僧
能登川西小学校運動場のすみに、仙台石の立派な碑が建っていますが、これはのちに相国寺の寺主(管長)となった大典の顕彰碑です。
この碑の表には、小楠公・楠正行をたたえた大典の詩が刻んであります。これは京都臨済宗相国寺派の管長山崎大耕師の筆によるものです。また、裏側には大典の略伝を記してありますが、これによると、大典は伊庭の儒医・今堀東安の子として生まれ、8歳のとき京に上り、11歳のときには相国寺の独峰和尚の下で得度し、安永8年(1779)には相国寺第113代の寺主となりました。また天明元年(1781)には、漢詩文に長じていたので、幕府の命を受けて、対馬に渡り、日本と韓国の外交の文書をつかさどり、日韓友好に力を尽くしました。
昭和12年(1937)には有志が集まり、郷里の生んだ偉人を顕彰するため、孝経の一字を一石に記し、基礎に埋め、その上にこの碑を建てました。
大典の墓は相国寺内塔頭・慈雲院の墓地の一角にあり、その隣には大典が碑文を記した伊藤若冲(画家)の墓が建てられています。
●種村箕山 たねむら・きざん [1720~1800]
―藩士の地位を捨て、子弟の教育に専念
町内北須田、もと野上火葬場の南側に墓地があり、その一角に「種村箕山先生之墓」が建っています。
墓は非常に古びていますが、その側面に蘭洲乗徳の記した碑文が刻まれています。
種村氏は伊庭氏の分かれで、子孫は彦根候に仕えており、箕山もこの子孫と考えられます。
この碑面によると、箕山の父は種村靖甫と言い、母は糟淵氏、幼いときから学を好み、沢村琴所の教えを受けました。17歳で藩の試計吏となり、父が役を退くと、その後を受けて計吏となりましたが、清廉潔白で、事にあたるという評判がありました。
また、藩命により、愛知郡平柳付近の荒れ地を開いて新田を開発するなどの功がありましたが、藩と意見が合わないため、その職を去ったと言われています。
その後、箕作山の麓に住み、白雲堂と名づけました。のちに能登川に移り、子弟の教育に尽力しました。
父母を大切にし、子弟・門弟を可愛がりましたので、その死後に、門人たちが集まってこの墓を建てたと言われています。
【今堀大典禅師】
【西小学校と詩碑】
【種村箕山の墓】
●西村助之丞 にしむら・すけのじょう [?~1819]―栗見出在家の開村の恩人
●西村助之丞 にしむら・すけのじょう [?~1819]―栗見出在家の開村の恩人(PDF 210KB)
愛知川は古来よりあばれ川として知られ、その河床は何回も場所を変えています。これは年々上流より運んでくる土砂が積り、河床が高くなり、洪水が堤を破って流出し、流れを変えた結果です。
現在の河床は少なくとも、寛文の開拓の結果できた栗見新田村の開村以前と考えられています。
栗見出在家村の開発は、文化3年(1806)彦根藩の奉行である西村助之丞が開発御用掛に命ぜられたことにはじまります。助之丞は現地に出張し、新田・福堂・乙女浜・宮西・川南・阿弥陀堂の6カ村から7戸ずつ、42戸を選抜せして移住させ、1戸に田地3反・畑地2反と宅地4畝を与え、自宅の建築にも補助金を与えました。
道路は東西に二筋の道を通じ、中央に水路を造り、湖水に通じるようにして船の便を計りました。
また新村のおきてを定めましたが、それには、どれほど貧乏しても土地を売り払わない、商売をしない、養子・嫁取りは町人は駄目、古風で精を出す働き者で、人柄の良いものをもらえなどと、細かいことを決めています。開村のときに氏神として神明社を創立しましたが、文政2年(1819)助之丞が亡くなるや、村人たちはその恩をしのび、湖辺に崇敬の社を建てました(のちにこの社は神明社の境内へ移されました)。
●超然 ちょうねん [1792~1868]
―詩歌にすぐれ、宗門護持に勤めた学僧
福堂の村外れ、昔は湖に面したところに、「柳荷荘」(夕陽楼)という覚成寺の別業があり、その庭に赤松連城が記した「高尚院超然師碑」が建っています。
この碑文によると、超然は彦根高宮・円照寺の次男として生まれ、17歳で覚成寺に入り、その後本山の学寮に入って研鑽に努めました。
宗政にたずさわったときには、学林(学校)に宗義上の争いが起こり、二派に分かれて争いましたので、そのときには両派の融和を図り、事なきを得ました。
外交・国防問題にも持論をもち、維新の志士とも交わり、とくに僧月照とは手紙のやり取りを行うなど、国の将来についていろいろ考えていました。
若いときから詩歌に長じ、歌は香川景樹、詩文は中川漁村の指導を受けました。また50余冊の日記を残し、死の4日前まで記しています。公刊された著書は16巻、内5巻は『真宗全書』に収められています。また未公刊のものは61冊にのぼります。
嘉永4年(1851)60歳のとき、嗣子に寺務を譲り、村外れの柳荷荘に移って、もっぱら著述に専念しました。
【出在家浜】
【昔の水路】
【超然】
【柳荷荘全景】
●波多野正平 はたの・しょうへい [1813~92]
―文人肌の芸術家、能登川の風土を愛す
湖東地方には「日本亀文」との銘のある鉄瓶が残っています。これは町内能登川の元役場の建物に住んでいた波多野正平の作であって、現在も美術品として高い評価を受けています。
初代亀文は家業の醸造業を継がず、京都の龍文堂四方安平の弟子となり、のちに独立しました。豪放磊落、風雅を志す文人肌の芸術家で、酒を好み、家計をかえりみることがなかったと言われています。
また頼山陽の教えを受け、またその子の頼三樹三郎らの勤王の志士との交友があったため、安政の大獄にかかわり、幽閉されたことがありました。
元治の兵火で家を失い、近江信楽の代官多羅尾氏を頼って身をよせ、のちに日野に移り、最後には能登川に居を移しました。それはこの地の山水をたいそう好んだためであると言われています。
初代亀文の作として有名なものは、江戸湯島の聖堂の飾りに使用した72個の銅器です(現在は所在不明です)。いまも鉄瓶・茶釜・火鉢・文房具などは美術品として尊重されています。
●岡崎三達 おかざき・さんたつ [1815~94]
―書画・文学に優れた、淡白・無欲の儒医
三達は愛知郡元持の池田家から、種村の岡崎家に入った人で、家業の儒医を継ぎました。
その性質は淡白・無欲であって、ほとんど算数を知らずと言われました。
書は貫名海屋に学び、画や和歌・俳句もよくしました。付近はもちろんのこと、遠く伊賀上野・伊勢松坂などにも門下生が多くいたようで、その地方には遺作が残っているということです。
作品としては『越渓詩集』があり、その他若干の遺稿が残っています。
●佐野理八 さの・りはち [1844~1915]
―生糸を改良し、アメリカへ輸出
日本の国産品の生糸をアメリカに直輸出した最初の人として知られています。
理八は町内鍛冶屋村(佐野・佐生に属する小字)の人で、幼いときより五個荘の外村与左衛門方に奉公し、のち独立して、福島県二本松城址に製糸工場を開き、明治8年(1875)には明治天皇の視察を受けました。
また、アメリカでは日本の生糸の粗製なのに懲りて輸出が減少していましたが、理八は生糸を改良して大いに輸出を増やしました。
理八は内地同士の商売は国の富を増やさないので、外国と交易して外貨を得て真の富を形成すべきであると常々言っていました。
●佐野丹造 さの・たんぞう [1853~69]
―敬神の念篤く、付近の子弟を教育した神官
丹造は町内神郷にある式内社・乎加神社の宮司の家に生まれ、神を敬い、徳を養い、付近の子弟を教育したので、村人に敬慕せられました。
その死後には、教えを受けた人々が集まって、立派な顕彰碑を名島(成島・梨間)に建てました。
いまも残るその碑文には、その人柄を述べるとともに、維新の際、京都御所の警護に当たるなど、勤皇の志が篤かったことなどが述べられています。
●田附政次郎 たづけ・まさじろう [1863~1933]
―田附将軍の名を残す
町内佐生に生まれ、伯父伊藤忠兵衛の紅忠へ丁稚として入り、のち独立し、一代で産をなしました。湖東紡績(現在の日清紡)を設立するなど、郷里の産業に
も意を用いました。
また、財団法人田附興風会を設立、京都大学医学部へ北野病院(大阪北区)を寄付し、五峰に興風会館をつくり、文化・教育に尽力しました。
【亀文の鉄瓶】
【佐野丹造顕彰碑】
●河崎仁左衛門 かわさき・にざえもん [1853~1920]
―運輸・治水など地方自治に尽くした県会議員
仁左衛門は町内福堂の大沢家に生まれ、種油搾取販売を業としていた躰光寺の河崎家に入り、家を継ぎました。
明治22年(1889)7月、東海道線の湖東線が開通して、能登川駅ができたとき、駅前に進出し、運送業を開業しました。
のち、県会議員に選ばれ、治水の問題や瀬田川の浚渫などの問題に力を尽くしました。このことが、のちに瀬田川の浚渫工事が行われる要因となりました。
また、県庁の彦根移転問題にも力を尽くしましたが、そのことは実現しませんでした。
当地方の産物である菜種を絞る製油会社を設立しましたが、これは失敗に終わりました。
●阿部一族
―豪商として活躍
阿部家は大字能登川の豪商で、紅市・布市と称し、麻布を取り扱い、代々市郎兵衛の名を襲名しました。
とくに第6代の浄廉は人徳があり、世の信用を得て、3人の弟とともに商勢の発展に尽くしました。なかでも北海道の交易に力をそそぎ、米・雑穀やさば・鰊・干鰯などの肥料に変えたり、若狭の海産物、奥州の紅花、丹後のちりめんなどを大量に買い取り、交易を盛んにしました。
第7代の蓮永は浄廉の弟・市太郎の子で、宗家を継ぎ、さらに家運を隆盛に導きました。
●沙々貴山君
蒲生郡の沙々貴山君とともに、大領として神崎郡を支配した古代の名族です。
史書には「大領沙々貴山君足人に正六位を授ける」という記録があり、平安時代になっても、この氏族の名はしばしば見られます。
大字山路の上山神社蔵の大般若羅蜜多経の奥書に「佐々木重貞」とあるのも、この一族であろうと思われます。
のちにはこの氏族は、近江源氏の佐々木氏と混同してしまうようです。
●桑原史人勝
能登川地方に住んだと思われる中国系の渡来人で、多くの人の頭でした。
●上田丈助
新宮の人で、明治維新の頃、地方自治のために活躍しました。
●了念
湖東地方に念仏の教えを伝えた佛光寺系の僧。松の木より現身往生したと伝えられています。
【阿部家所蔵の文書】
【了念の記念碑(伊庭・妙楽寺)】
◆石は語る The stones tell a story
◆石は語る The stones tell a story(PDF 241KB)
古来から「いしぶみ」と言われるように、石に刻めば半永久的に保存されます。
町内には有名な文学碑こそありませんが、目につく範囲で収録しました。
歌碑・句碑
日の本にひかりあふれてからくにも かゝやかしけむおほみいさをに 塚本源三郎【本町・太子堂】
上宮会館が昭和11年(1936)秋に創立されたときに建立されました。
ふるさとの春にぎはへとわがちちが うみべの宮に植えし桜や 中村九一【伊庭・金刀比羅浜】
伊庭村長だった父が金刀比羅浜に植えた桜を追懐し作った歌。作者はアララギ派の歌人。
此の路やかのみちなりし草笛を 吹きて子犬とたわむれし路 阿部鏡子【繖山麓】
恵澤の美挙 静順の空仰ぐ 方堂【川南・公民館】
大津紅葉館・木下弥三郎の徳をたたえた義仲庵第十八世・方堂の作。
近江路や野嶋か崎の浜風に 夕浪千鳥立ち騒ぐなり 顯輔(風雅集)
【福堂・野島崎神社】
望郷のおもひ鎮めてとことはに ふく堂の地にやすらひたまへよ 井伊文子
【福堂・巡礼三昧】
西国巡礼の人々が春の嵐で打ち上げられた場所に建立された巡礼三昧碑の側にあります。
なきあとのわか直こゝろを人とはゝ すへらくぬちの魂とこたへよ 山脇清次
【伊庭大浜神社】
大浜神社宮司の辞世の歌。繖西音楽会が建立しました。
◆道標・境界石
湖邊巡礼二十四番 観世音 安楽寺道是より三丁【安楽寺】
従是南そう見寺領 【北須田と南須田の境界】昔は神崎・蒲生の郡界
記念碑・由緒碑・遺跡
県下最初耕地整理碑【南須田】 背景の山は観音寺山
御茶之水 【能登川・伊庭御殿地】
五十余士松 【安楽寺・十応寺(焔魔堂)】
南無阿彌陀佛 【福堂・巡礼遭難供養碑】
近江源氏 佐々木家生湯之池【佐生】 佐々木家発生の地と伝わっています。昔は昼なお暗い竹藪の中にありましたが、いまはやぶの一部も切り拓かれました。
◆法華塔
【南須田・腰越】
【川南・浄土寺】
【大徳寺】
【長勝寺】
五輪塔
【長勝寺・山上】
顕彰碑
後藤但馬守城址
佐生城主、子孫の後藤賢豊父子は佐々木氏に謀殺された。佐生山に城址が残っています。〔佐生城址〕
大橋錦護
幕末から明治にかけて伊庭小学校で教え、子弟に慕われました。〔伊庭・謹節館〕
関諦観
山路・浄源寺の学僧、勧学職。
桂利剣
今・光臺寺の学僧。
竹中半兵衛の墓
竹中半兵衛は豊臣秀吉の軍師で、中国攻めに大功を立てました。その子孫がこの地に住んでいて、川南・浄土寺に先祖を偲んで建てたということです。
◆わが町の文化財 Notogawa’s important cultural assets
◆わが町の文化財 Notogawa’s important cultural assets(PDF 449KB)
能登川町には、先人の残した多くの遺産があります。これらの遺産は、後の世まで伝えるため、「指定文化財」として保存します。
◆国指定の文化財
1 安土城跡(南須田・きぬがさ)【特別史跡】
織田信長が、天正4年(1576)安土山に7層の天守閣を持つ城を造りました。これが安土城です。
安土城はその後火災にあい、いまは石垣や建物の礎石が残るだけとなっていますが、最近の発掘調査で、城ができた当時のことが少しずつわかってきています。
滋賀県指定・選択の文化財
2 紙本著色絵系図、附一流相承絵系図序(妙楽寺・伊庭)【絵画・県指定】
絵系図の絵の部分の大きさは縦130cm×横57.5cm、絵系図序の大きさは縦212cm×横43.5cmです。
この絵系図の内容は、念仏の教えが親鸞聖人から了念にどのように伝わっていったかを説明したものです。
いまは絵系図と序に分かれていますが、もともとは一つの巻物であったようです。
3 木造仏頭(善教寺・種)【彫刻・県指定】
何回もの火事にあい、仏頭だけがいまに伝わっています。この仏頭の大きさは、長さ54.2cm・顔の幅27.5cm・奥行き35.7cmです。頭から下の部分は、のちの時代に付け加えられたものです。顔の表情から、平安時代後期に造られたことがわかりました。
4 仁王堂(大浜神社・伊庭)【建造物・県指定】
間口5間×奥行き5間の入母屋造りの建物です。いまは改修されて神輿の倉庫として使われていますが、昔は5間仏堂という建物であったと言われています。
建物の部材から鎌倉時代前期のものとわかりました。
5超光寺表門(超光寺・南須田)【建造物・県指定】
表門は四脚門、切妻造り、本瓦葺という造りです。この門は、安土城にある 見寺建立のときの裏門を移したものと言われていて、また見寺での発掘調査でもこの門と同じ寸法の門の遺構が見つかっています。
6 伊庭の坂下し(安楽寺・伊庭)【無形民俗文化財・県選択】
毎年5月3日に行われる古くからの祭りで、3基の神輿が500mの距離を大きな岩からすべり落ちます。近江の奇祭の一つとしてよく知られています。
能登川町指定の文化財
7 石造宝塔(長勝寺・長勝寺)
花崗岩の石で造られたもので、高さは239cmあります。たいへん保存状態がよく、石に彫られた「嘉歴」(1326~29年:鎌倉時代)と「阿闍梨」の文字が読めます。この宝塔は、鎌倉時代の特徴をよく残した立派なものです。
8 涅槃図(善勝寺・佐野)
絹織物の生地に色をぬって描かれた(絹本著色)掛け軸で、絵の部分の大きさは、縦172cm・横122.4cmです。作者は室町時代の僧侶であった吉山明山(兆殿司)と言われています。この掛け軸には、室町時代の特徴である切金技法という技法を使った模様が描かれています。
9 木造聖観音立像(大徳寺・能登川)
木でできた仏像で高さは92cmあります。
この仏像は平安時代の特徴をよく残すもので、寺の言い伝えによると「恵心僧都」と言われています。
10 大燈国師墨蹟(大徳寺・能登川)
紙の上に墨で文字を書いた掛け軸で、文字が書かれているところの大きさは、縦35cm×横45cmです。
右端には「乗月上高楼宗峰(花押)」があり、「宗峰」とは大燈国師の号です。
11 石燈籠(望湖神社・伊庭)
花崗岩で造られた6角形の燈籠です。高さは230cmもあります。基礎(一番下の石)部分には蓮の花をかたちどった模様や格狭間が彫り込まれています。石燈籠の各部分には南北朝時代の特徴がよく表現されています。
12 木造阿弥陀如来坐像(妙金剛寺・伊庭)
この坐像は高さ89.7cmあります。平安時代の終わりから鎌倉時代の初めに造られたもの(藤原仏)で、脇士は建長6年(1254)に造られたという古文書があります。
13光明本尊(正厳寺・伊庭)
絹本著色の掛け軸で、絵の部分の大きさは縦125cm×横100.2cmあります。下地の色が黒色、三菩薩と聖徳太子が小さく描かれているなどの特徴から室町時代のものということがわかります。表装は蓮の書き表具です。
14 光明本尊(妙楽寺・伊庭)
絹本著色の掛け軸で、絵の部分の大きさは縦158cm×横92cmあります。寺の言い伝えによると、親鸞聖人が描いたもので、建武の乱(1334~37年)のときに京都渋谷仏光寺から移されたと言われています。
15 涅槃図(妙楽寺・伊庭)
絹本著色の掛け軸で、絵の部分の大きさは縦139cm×横122cmあります。これには、涅槃図にはめずらしくネコの絵が描かれていて、京都東福寺の涅槃図の下絵と言われています。この絵は室町時代の特徴をよく残しているものです。
16 大般若波羅蜜多経(柳瀬在地・伊庭)
お経を書き写した長さ25.9cmの巻物で、もともとは600巻あったようですが、いまは74巻が残るだけです。この大般若経は最初静岡県で写され、その後湖西地方(志賀町)に移り、いま能登川町伊庭で保管されています。
17 大般若波羅蜜多経(上山神社・山路)
いま残っている大般若経はすべて巻物で、長さは27~28cmです。いまは449巻が残っています。その中でいちばん古いものは第327巻で、最後に「延長7年」(929)という文字が書かれています。
18 菩薩形懸仏(上山神社・山路)
この懸仏は、白銅製の金属板に金メッキしたものに、仏像を線で彫刻したものです。大きさは、直径21.4cmで上の部分の左右につり下げるための穴のあいた突起があります。
鏡から懸仏に変化する途中の形をしています。鎌倉時代の作品と考えられています。
19 梵鐘(発願寺・佐野)
梵鐘は、高さ138.2cm×直径74.8cmです。木を打ちつける撞座はやや高い位置にあり、周囲の天人飛翔は優雅な模様に仕上げられています。「天文9年(1540)三俣(五個荘町)住、藤原姓徳田相左門家次」の銘文が残っています。
20 法堂寺遺跡(佐野)
地名に「法堂寺」という小字名があり、また白鳳時代の瓦が出てくることから、白鳳(奈良)時代の寺跡と考えられています。いまは塔心礎が残っているだけですが、最近の発掘調査で寺の伽藍配置がわかりつつあります。
21 親鸞聖人合掌の御影(本行寺・種)
絹本著色の掛け軸で、絵の部分の大きさは縦130cm×横72cmあります。
この絵は、室町時代のすぐれた画家によって描かれたもので、別名「花の御影」とも言われます。
22 聖徳太子絵像(本行寺・種)
絹本著色の掛け軸で、絵の部分の大きさは縦102cm×横46cmあります。
詳しいことはわかりませんが、室町時代のすぐれた画家によって描かれたようです。
23 真宗七高僧絵像(本行寺・種)
絹本著色の掛け軸で、絵の部分の大きさは縦102cm×横64cmあります。
詳しいことはわかっていませんが、室町時代のすぐれた画家によって描かれたようです。
24 木造千手観音立像(善教寺・種)
仏像は寄木造りで、高さは110cmです。表面には朱色の塗料がぬられています。
目は後の時代に内側からはめ込まれていますが、平安時代後期の作品です。
25 木造阿弥陀如来坐像(光照寺・阿弥陀堂)
この仏像の高さは147.7cmです。表面には金箔がよく残っています。
中世に火事にあい本堂は失われ、この像を残すだけですが、鎌倉時代の作品と言われています。
26 木造阿弥陀如来立像(浄土寺・川南)
この像の高さは96.1cmで、ヒノキで造られた寄木造りの仏像です。
この像の特徴は、顔と下半身が長く表現されているところにあります。平安時代後期から鎌倉時代にかけての来迎の弥陀信仰が盛んであった時代のものです。
27 八王子法橋伝来文書(五人衆・安楽寺)
法橋というのは能登川町安楽寺にいまも残る「五人衆」という組織の最年長者のことです。
この文書は、700年という長きにわたって受け継がれてきたもので、能登川町の中世史解明のために貴重な資料です。
28 弘誓寺表門(弘誓寺・躰光寺)
この門は、大型の四脚門に入母屋造りの屋根をかぶせた門です。門が建てられた時期は、部材の模様などから江戸時代後期と考えられます。
また、境内には諸堂が当時のまま残っていて、伽藍配置構成の上からも重要な遺構です。