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近江商人のルーツ・小幡商人
中世の商業 ~座と市庭(いちば)~
この頃、生産技術の向上や貨幣の流通によって商業が発達しました。中央と地方とを結ぶ遠隔地間取引により、商人の活動が盛んになりました。
その舞台となったのは定まった日だけに市が立つ定期市でした。設備もほったて小屋式の仮設のもので、固定した店舗は京都など一部の都市に限られていたのです。しかも市庭(市場)で商業活動を行うには、座商人であることが前提条件でした。
中世商業最大の特徴は、商人が座と呼ばれる職能集団を形成して、特定の寺社権門に属し、税金などを納める代わりにさまざまな特権を与えられて、営業活動を行ったところにあります。
中世近江の市庭
日本の回廊地帯である近江には、東山道、東海道や北国街道など多くの街道が通っていました。その道を人が通り、物資が運ばれました。沿線に商業の場として市庭が早くから成立した理由です。
なかでも東山道沿い一帯は、近江の親市と呼ばれる長野市(現、愛荘町)をはじめ、数多くの市庭が設けられました。
小幡商人(おばたしょうにん)の活躍
近江国内の市庭で活躍し、商業圏を形成していく商人たちは、中世では、京都・美濃・伊勢・若狭の各街道の通商権を持つ商人にわかれていました。
若狭(福井県)方面へは湖上経由の九里半街道を通って、小幡・八坂・薩摩・田中江・高島南市の商人が通商しました。彼らは五箇商人と称され、主に塩合物(塩魚)を取り扱う卸売商でした。 伊勢(三重県)へは八風・千草両街道を通って、小幡・保内・沓掛・石塔のいわゆる四本商人が通商しました。彼らは鈴鹿山脈を越えるため山越商人とも称されています。海産物や塩・布など多彩な商品を取り扱い、市売や里売といった小売までをおこなっていました。
ここ五個荘の地を本拠とする小幡商人は、流通幹線路の東山道沿いに位置する利点を生かして、四本商人と五箇商人を兼ねる唯一の商人団として活躍しました。小幡商人は、江戸時代から活躍する近江商人の原型となりました。