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近江商人とは

列伝

江戸時代に活躍した代表的な近江商人
西川甚五郎(にしかわじんごろう)
西山甚五郎

<山形屋(やまがたや)・初代1549~1644>

八幡商人。蒲生郡岡山村生まれ。天正14年(1586)に八幡城下が楽市楽座とされると店を設け、主に能登方面に蚊帳や畳表を行商。次第に商圏を広げ、ついに江戸日本橋に出店しました。2代目甚五郎は萌黄蚊帳を考案して富を得、今日に続くふとんの西川で知られる「西川産業」の基をつくりました。

西村太郎右衛門(にしむらたろうえもん)
西村太郎右衛門

<安南屋(あんなんや)・1603~51>

八幡商人。蒲生郡八幡町生まれ。外国貿易を志して豪商角倉了以の御朱印船で安南国(ベトナム)に渡る。現地で20年間商いを続け、国王に認められ正保4年(1647)に財産をつんで長崎に帰国。しかし、日本は鎖国のため上陸できませんでした。そこで「安南渡海船額」を郷里の日牟礼八幡宮に奉納し、安南に帰りました。

西谷善太郎(にしたにぜんたろう)
西谷善太郎

<最上屋(もがみや)・4代目1603~66>

八幡商人。家祖は神崎郡小幡村(旧五個荘町)の出身で、安土城下に移り、のち八幡城下に移住。4代目善太郎は出羽地方(山形県)に呉服・古着類を行商し、以降代々同地に出店を構えました。8代目善太郎が活躍した宝暦年間(1751~63)には、呉服・真綿・古着類を下し荷し、同地の紅花・青苧・絹糸・タバコを上方で販売して巨商の列に。

西川伝右衛門(にしかわでんえもん)
西川伝右衛門

<住吉屋(すみよしや)・初代1627~1709>

八幡商人。蒲生郡南津田村生まれ。僅かな元手で呉服類を北陸・奥羽地方(秋田県など)に行商。そのとき、蝦夷(北海道)が商売に有利との情報を得、寛文年間(1661~73)に松前に出店。藩の御用商人となり、船を造り大坂方面に産物廻しを行って巨利を得る。また、場所請負をし危険をおかして有望な漁場を開拓。

市田清兵衛(いちだせいべえ)
市田清兵衛

<麻屋(あさや)・3代目1637~1714>

八幡商人。市田家はもと六角氏に仕えた武士で神崎郡石川村(旧五個荘町)の出身。承応元年(1653)頃に八幡町に移り、3代目清兵衛は上州(群馬県)に繰綿・太物類を持ち下り商いし、当地の産物を登せ荷し富を得ました。晩年、家訓を定め新規事業を慎重にし、才能ある者は中途採用でも重役にすることを示しています。

正野玄三(しょうのげんぞう)
正野玄三

<初代1659~1733>

日野商人。蒲生郡村井村生まれ。初め商業を志し18歳から東北地方に行商しました。のち、母の難病を治した名医に感激し医業に転向。宝永年間(1704~11)に故郷で「萬病感応丸」などの合薬を作り、日野売薬の基礎となりました。

小泉武助(こいずみぶすけ)
小泉武助

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五個荘商人。神崎郡山本村の出身。もと農家でしたが、所有する田の収穫は年貢にも満たない有様。これを商いで補うため麻布を播磨・丹波地方に行商し、苦労の末成功。享保12年(1727)に家督を養子に譲り、田畑を守り商いに出精するよう諭し、諸国社寺巡礼の旅に出、その後音信不通となりました。

外村興左衛門(とのむらよざえもん)
外村興左衛門

<外与(とのよ)・5代目1682~1765>

五個荘商人。神崎郡金堂村の出身。外村家は代々篤農家でしたが、5代目興左衛門は農業だけでは一家の繁栄はないと考え、農閑期に近江麻布を姫路・大坂・堺などに行商。元禄13年(1700)に大和郡山に出店し、後の総合繊維商社外与の創業の祖と。外村一族からは外宇・外市・外宗など多くの商家が生まれています。

中井源左衛門(なかいげんざえもん)
中井源左衛門

<十一屋(じゅういちや)・1716~1805>

日野商人。蒲生郡岡本村生まれ。家業は日野椀製造業。19歳から関東各地を行商し、29歳で下野国(栃木県)に質店を開業。以降、全国各地に支店を置きその数15店におよび、仙台伊達藩の御用商人に。司馬江漢が日記に「この爺さん一代に三十万両を儲け」と記しています。世界初の複式簿記を考案し、家訓「金持商人一枚起請文」でも有名。

松居久左衛門(まついきゅうざえもん)
松居久左衛門

<星久(ほしきゅう)・3代目1770~1855>

五個荘商人。神崎郡位田村の生まれ。農業のかたわら生糸・綿布・麻布類を全国に行商し、やがて江戸・京都に出店。日常の生活は質素倹約に徹し「奢れる者必ず久しからず」を信条としましたが、有事には出費をおしまず社会奉仕に尽力。商標の商標マークは天秤棒を肩にかつぎ朝星夜星を仰いで働くの意味でした。晩年、遊見(ゆうけん)と号しました。

髙田善右衛門(たかだぜんえもん)
髙田善右衛門

<初代1793~1868>

五個荘商人。神崎郡北庄村の富裕な家の末子として生まれる。早くから独立を志し、17歳で僅かな元手で山路の険しい紀州に行商。この地方で必要な商品を調査して販路を拡大。のち麻布などを関東で販売し、京都にも出店。常に天秤棒を肩に旅する姿は戦前の国定教科書に刻苦精励を信条とする近江商人の典型として紹介。

飯田新七(いいだしんひち)
飯田新七

<高島屋(たかしまや)・初代1803~74>

高島商人。越前敦賀の出身で、京都の呉服屋に奉公中、その勤勉ぶりから高島出身の米屋飯田家の養子に。家業を呉服商にかえ、高島屋の屋号で他店よりも早朝から店を開け、「おかげにてやすうり」を合言葉に確実な商品を安価で販売。多くの信用を得て、今日の百貨店高島屋の基礎を築きました。

塚本定右衛門(つかもとさだえもん)
塚本定右衛門

<紅屋(べにや)・2代目1826~1905>

五個荘商人。神崎郡川並村生まれ。嘉永4年(1851)26歳で家督を継ぎ、営業方針を「多利僅商」から「薄利広商」へ転換。明治5年(1872)に東京日本橋に出店し、商店を会社組織に改めるなど近代化を進め、繊維商社ツカモト株式会社の基礎を築きました。また、勝海舟が「氷川清話」でスケールの大きい近江商人として感心した話は有名です。

市田弥一郎(いちだやいちろう)
市田弥一郎

<市田(いちだ)・初代1843~1906>

五個荘商人。彦根の紙・荒物商の三男に生まれ、13歳頃から商売に従事。その商才を見込まれて神崎郡旭村の市田弥惣右衛門の養嗣子に。はじめ東海道に荒物・呉服類を行商し、一日に10里(40㎞)を旅商するほど敏捷な販売力でした。明治維新の混乱期を飛躍の好機とし、明治7年(1874)に東京日本橋に京呉服卸問屋を開店し、後の市田株式会社の母体に。晩年は、京都南禅寺に市田對龍山荘を営み、風月や芸術を愛しました。

藤井彦四郎(ふじいひこしろう)
藤井彦四郎

<スキー毛糸・1876~1956>

五個荘商人。北五個荘村宮荘生まれ。明治35年(1902)に兄4代目善助と呉服・太物を商う藤井西陣店を開く。同40年に絹糸や人造絹糸を扱う藤井糸店となり、兄が政界に出たため社長となる。不況期も「現状維持は退歩なり」をモットーに経営し、五光商会・共同毛糸紡績などの会社をおこし、中国にも進出。

小林吟右衛門(こばやしぎんえもん)
小林吟右衛門

<丁吟(ちょうぎん)・2代目1800~73>

湖東商人。愛知郡小田苅村出身。15歳で呉服などの行商を行い、文政11年(1828)頃より東北地方から紅花を仕入れて染料製造を始める。天保2年(1831)に江戸に織物問屋丁字屋を開き、のち江戸・大坂・京都で両替商(金融業)を営み、彦根藩両替方御用達に。藩主井伊直弼と親交深く、このため攘夷派浪人に狙われた話が残っています。

薩摩治兵衛(さつまじへい)
薩摩治兵衛

<丸丁字(まるちょうじ)・1831~1909>

湖東商人。犬上郡四十九院村の貧農の子に生まれ、9歳で父を失い16歳で丁吟(小林吟右衛門)に丁稚奉公に。奉公中に商人魂を鍛えられ、慶応3年(1867)に独立し江戸に和洋木綿商丸丁字を開業。明治21年(1888)に郷里で田畑を買い、その小作料を貧しい農民の救済に当てました。

伊藤忠兵衛(いとうちゅうべえ)
伊藤忠兵衛

<丸紅(まるべに)・初代1842~1903>

湖東商人。犬上郡豊郷村生まれ。安政5年(1858)に近江麻布の行商をはじめ、馬関・九州地方に地盤を広げる。明治維新の混乱期に社会の動きをよく観察し、明治5年(1872)大阪に呉服太物店・紅忠を開いた。明治23年(1890)に対米雑貨輸出を開始し、サンフランシスコに支店を置くなど、後の伊藤忠商事・丸紅の基礎を築きました。

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